見出し画像

ゆるゆる詩歌遍歴の記 │ひとりアドベントカレンダー#19

自分のTwitterアカウント、いつから使ってたっけ?と思ったら、2015年9月から使っていたらしい。確か、ネット歌会「うたの日」に参加していたころだ。

いま私のTwitterアカウントに接している人は、たしかポエトリーリーディングとかスポークンワーズとかだったと思うけど雑多なことばっか書いてるなこの人……くらいの認識だと思うし、実際私も自己認識がそういう感じになってきているので、いま一度ここでてきとうに自分の詩歌・文芸遍歴をまとめてみたいと思う。

百人一首を模倣する

小学生の頃、実家の本棚に、学研まんが事典シリーズ『まんが百人一首事典」があって、それを死ぬほど読んでいた。そのうち、百首ぶんの歌・口語訳・作者・解説まんがのせりふを全部覚えた。

古語もまあまあ外国語みたいなところあるから、最初は意味も分からずに暗誦するだけである。そこに口語訳やまんがの解説がのってきて、ただの音声と意味とがシンクロして頭の中を走るようになる。そしてさらに、歌の中の字句を入れ替えて、もじったりして、百人一首の歌を模倣しては書きつけるようになった。

俵万智『サラダ記念日』に出会う

そんな私のようすを見ていた母が、俵万智『サラダ記念日』の文庫版を貸してくれた。小学校の中学年頃のことだったと思う。

現代口語でこんなことも五・七・五・七・七で言えるんだ!という衝撃を受けて、それ以来、自分の学校生活で思ったことをなんとなく短歌にしだす。

潜在的いつき組──夏井いつき『100年俳句計画─五七五だからおもしろい!』

小学6年生の冬に買ったのが、夏井いつき『100年俳句計画─五七五だからおもしろい!』だった。どの小学校にもあてはまるかはわからないが、私の通っていた富山市内の小学校では、長期休暇の前に、"学校を通じて購入できる推薦図書"の一覧・申込欄がカラー印刷された封筒が配られる。小学5年の冬期休暇の前に配られた推薦図書封筒に書いてあったのが、『100年俳句計画』だった。当時、文学少女気取りだった私は、「俳句なんかも知っちゃうもんね」くらいの生意気な気持ちで、それを親に買ってもらった。

いざ買って読んでみると、これがめちゃくちゃ面白いのである。今でこそ、夏井さんはMBSテレビ系「プレバト」で辛口俳句添削の先生としてお馴染みだが、私はこの本で夏井さんを「日本全国を飛び回って俳句ワークショップをやっている、めちゃめちゃ元気なおばさん」として認識した。

そして、夏井さんが全国各地で出会った、俳句をつくる子どもたちやその家族、学校の先生たちの俳句に衝撃を受けた。今まで自分が知ってた俳句と違う。 

葉桜のゆう気だジェットコースター  ピアニシモ
南風空まではしるゴーカート  ミスターりょうや(小四)
宇多田ヒカルをつけっぱなしの短き夜  浅海美喜
田植機の右手若干遅れけり  みさこ

たった十七音で、日常生活の一場面をこんなに解像度高く切り取れるなんて!私は特に、最後に紹介した「みさこ」(書籍の中では当時中間一貫校に通う15歳として紹介されていた)の句に特に心ひかれた。母、父、妹との関係をときにシニカルに、ときに苦笑いするような微笑みがまじったような口調で描写する。はたまた、学校の授業の一場面を諧謔味たっぷりに描かせれば天下一品。世の中にはこんなに尖った俳句をつくる中高生がいるのか!と衝撃を受けた。

私は「みさこ」に憧れとも嫉妬ともつかない気持ちを抱いた。”みさこ……すごい……なんかくやしい!でも、私にだって、なんかいい感じの句が詠めるはず!!”

この大いなる勘違いが、私を文芸の世界へ引き入れることになる。

中学時代は俳句に没頭した。季語の重層的なイメージの力をうまく利用して、日常のなんでもない一場面や気づきを、唯一無二の句へと昇華させるのが楽しくてたまらず、毎日のように何か作っていた。中学時代はなかなかつらいことも多かったが、俳句のタネを探しているときは、周囲の世界の解像度が上がり、キラキラして見えた。

そのうち、地元・全国の俳句コンクールに応募したり、NHK教育(現・Eテレ)の「NHK俳句」に投句したりして、何回か放送で採用された。放送されたことのある句はこんな感じ。

仲たがひして七夕の夜の雨
中三は子どもにあらず柏餅
妹は寝顔も笑顔雪解水〈読み・ゆきげみず〉

短歌・俳句の二刀流部員

高校に入ってからは、演劇部と文芸部の兼部。9割方演劇部で活動していたが、学期ごとに出す部誌には毎回原稿を出していた。たしか最初は俳句だけだったのが、俳句の定型ではもてあますような題材もでてきた。そして、「もしかして俳句で描くには向いていないタイムスパンとか、内容のタイプとかあるんちゃうか……」という気持ちが芽生えてきた。

そこで、俳句を先に作って、俳句でもてあました内容は短歌にまわすという、今思えば短歌に結構失礼なことをやっていた。そのうち短歌も同じくらいの分量をつくるようになり、結果的に、「文芸部で短歌と俳句を二刀流でやっている唯一の人」として、文芸部の先生や図書室の先生(なぜか文芸部の面倒もみてもらっていた)にはなにかとお世話になった。

ひとりじゃないと知った、しおかぜ総文

高校文芸部に入っていてよかったことは、高校総合文化祭(以下、高文祭)という、高校文化部のインターハイ的な公式大会で文芸作品を出す機会をもらえたことだ。

高校三年生のとき、短歌部門の県予選で上位の賞に入選し、その年(2013)の高文祭(愛称:しおかぜ総文)の全国大会会場・長崎県に滞在することになった。夏休み真っただ中、体育大会の練習も受験勉強もそっちのけである

なんだかもう情報が埋もれていて辿りにくいが、文芸部門の短歌分科会は西彼杵(そのぎ)郡の長崎県立大学シーボルト校内で行われた。滞在していた長崎市の中心部(出島とか路面電車があるところ)から、バスで険しい坂を超えていった先にやっとある、しかし見晴らしのいい広々した場所だ。

このとき、短歌分科会のスケジュールは、一日目はひたすら貸し切りバスで長崎市の名所旧跡(長崎原爆資料館、長崎県立図書館、龍踊で有名な諏訪社など)をめぐって、おのおの好きに短歌をつくる。二日目はシーボルト校内の教室に集まり、作った作品を互いに批評し合ったり、地元の歌人を招いて講評を受けたりするというものだった。

一日目の吟行もそれはそれは楽しく、初めて見聞きするものに触れてスルスルと歌が出てくる。実はこのときに作った短歌の一部は、すでにnoteにほぼ当時のまま載せているので、ご興味の向きがありましたらどうぞ。

原爆詠だけでなく、出島の見物に行ったときのことや、長崎市中心部の街のことも詠んだり。

長崎の朝の汽笛を聞きながら駅へと向かう横断歩道
屏風絵のマストに登る船員の衣大きく風を孕めり
金泥(きんでい)の雲の切れ間に出航の錨(いかり)を上げよ南蛮屏風
街角の間口の狭い弁当屋おしゃべり好きなおっちゃんなりき

新しい短歌が新しい題材でたくさん作れたこと自体も楽しかったのだが、当時私がしみじみとうれしかったのは、「短歌ってひとりでやんなくてもいいんだ」ということである。二日目の分科会で、全国各地から集まってきた高校生とグループになり、互いが作った短歌について議論をかわす。

他の人の、自分が思ってもみなかった読みを知れて、一首をひもとく手がかりがどんどん増えていく自分で作った作品ですら、自分で気づかなかった角度から光を当てられて、様々な表情を見せるようになる。静かな驚きの連続で、その日の晩は興奮冷めやらずなかなか眠れなかった。

それまで文芸部内でほぼ一人で短歌をやってきたので、短歌は孤独な作業だとずっと思っていた。それが、全国各地から短歌好きな同年代の人たちが集まり、一首についてこんなにたくさんの話ができる。短歌はひとりの頭でやること以外にも、面白いことがある。私はひとりじゃなかったのだ

大学短歌会からポエトリーリーディング/スポークンワーズへ

こうしてすっかり俳句から短歌へと専業(?)を変えた私は、大学でも短歌会に入り、高校時代よりも細々とながら作歌を続けていた。そのつながりでポエトリーリーディング/スポークンワーズへと導かれ、のめりこんでいくのだが、それはまた別のnoteで。なんとなくその端緒みたいな流れは、このひとりアドベントカレンダー内のエントリで既に書いたので、気になる方はどうぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?