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平家物語灌頂巻より「徳子の生涯」

「平家にあらずんば、人にあらず」

かつて、平時忠をしてそう言わしめたほど、平家一門は栄華の極みにあった。さりながら、以仁王の令旨が発せられ、治承・寿永の乱が起きると、木曽義仲の送った軍勢により都を追われ、やがて壇ノ浦の海に没した。この時、建礼門院徳子は一門の後を追って入水したところを源氏の兵に助け出された。こののち、彼女は東山へ送られて尼となった。

時は移り、文治2年、後白河法皇がわずかの伴を引き連れて大原へ行幸された。遠く山にかかった雲は散ってしまった桜の面影を映し、青葉に茂る梢は春の名残をとどめつつも夏の緑を方々へ拡げていた。ここに徳子が庵を結んで、安徳天皇と平家一門の菩提を弔う日々を送っていたのである。法皇は下山した徳子と涙の再会を果たされた。

「私は平家が栄える様も、滅びゆく様も、この目で見てまいりました」

徳子は涙ながらに語った。

久寿二年、徳子は平清盛の娘として生まれ、蝶よ花よと育てられた。16歳のとき、清盛と後白河法皇の政治的な思惑のために、元服したばかりの高倉天皇に入内した。帝は実に慈しみ深い人であった。夫婦の間には中々子が出来なかったが、徳子が23歳のとき、ついに待望の男子が産まれた。後の安徳天皇である。徳子は、女として、また一人の母として、このうえない幸せを噛みしめていた。しかし、その幸せも長くは続かなかった。天は徳子から愛する人々を次々に奪っていった。高倉上皇が崩御し、ついで、父の清盛入道が亡くなった。そうして、幼い安徳天皇までもが二位の尼の腕に抱かれて壇ノ浦の海に沈んでいった。

一門の最期を見届けたのち、徳子は、明石浦で、かつての愛した人々を夢に見た。安徳天皇や二位の尼が海の底に建てられた壮麗な宮殿で暮らしていた。二位の尼がいみじくも言ったように、海の底にも都があったのである。二位の尼は、幼い安徳天皇を膝の上に置いて、一門の菩提を弔うように告げた。

徳子は静かに語り終えた。法皇の目は涙で濡れていた。そのうち、日暮れを知らせる寂光院の鐘が鳴り響いて、夕陽が西に傾いた。法皇は名残を惜しみつつ都へと帰られた。

法皇の大原御幸のあと、徳子は阿弥陀仏の御手にかけられた五色の糸を引きながら、祈りと念仏を唱え続けた。そうして、歳月が流れたある日、西の空に紫色の雲が棚引き、徳子は芳しい香りと音楽に導かれるように極楽への往生を遂げた。建久2年の頃だと平家物語は伝えている。

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