やっぱり私、寂しくないっすよ(笑)

 小学校で不登校になって以降、持ち直すことなく十代半ばで引きこもりになった。まともに生きられない自分が嫌になって、携帯電話から連絡先をほとんど消してしまった。二十代半ばでなんとか社会にでることには成功したが、友人を作ろうともせずに生きてきた。職場には仕事だけをしにいっている。音楽活動を始めて知り合いは増えたが、未だに心を開ける相手はそんなにいない。
 こういうことを、しばしば私は他人に向かって平然と言い放つ。私を友人だと認知していた人間からすれば相当なショックだろうと想像する。「お前は心を許せる相手じゃない」といわれているのと同じだ。我がことながら酷いが、本当のことである。
 「寂しくないの?」という問いには、「べつに寂しくないっすよ、気楽でいいっす」などといっている――が。本当のところは、寂しい。めちゃくちゃ、寂しい。悶えるほど、寂しい。
 ならばなぜそういわないかといえば、ここに大きな落とし穴があるのを知っているからだ。
 私が一言「寂しいです」といえば、人は集まってくる。「あなたはひとりじゃない、私達がいるでしょう?」「みんな仲間じゃないか!」と、優しげな言葉と、気遣わしげな表情を持ち寄って。
 悲しいかな、彼らの多くは同じように寂しい人間だ。
 それの何が悪い、同じ気持ちを分かち合うのが人間だろう、お前も歌唄いならわかるじゃないか、と、いう向きもあるだろう。
 確かに、自分の歌を作る際には「キミは間違ってはいないし、狂ってもいない」「そういう風に思う奴はキミひとりだけじゃないし、ここにもいる」というメッセージを込めて書いていることもあるが、それとこれはすこし違う。
 寂しいと感じるのが悪いとは思わない。人は皆、生まれてから死ぬまで孤独だからだ。自分自身という存在はこの世にたったひとりしかいない。考えれば背筋が寒くなるような事実である。だからこそ、人は人を求めるのだろう。
 そこまで理解していての話だが、寂しさとは欠乏だ。
 満たされていない人間が、他者に与えることなどできるのだろうか? あれこれと世話を焼いた挙句に相手に鬱陶しがられて、「かまってあげたのに!」と逆ギレするというケースはよくある。
 結局、寂しい時は寂しいまま、ひとりでいることが安全だと私は悟ったのである。
 そんな私だが、ひととき孤独を忘れられる瞬間がある。 
 強い想いのこもった音楽や、文章や、絵、その他もろもろの制作物に触れたときだ。作品の向こうには人がいる。己の内側に湧き出るものを訴えるために、泥臭くも自分自身と格闘する人がいる。私はその事実で充分に心強くなれるのだ。
 なんだ。
 やっぱり私、べつに寂しくないっすよ(笑)。

執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!