優しさとは頭脳プレイである
「人間にとって大事なことは、ふたつだけなんですよ」
「ふたつ?」
「<考えること>と<愛すること>です。このふたつだけです。そのほかのことは、どうでもいい。ぼくはもっぱら、考えるほう専門だけど」
――殊能将之『美濃牛』
しばらく会っていない知人が、私のツイートの内容が前向きに変わってきた、といっていたらしい。直接聞いた話ではないので、どのような感想を抱いているのかは知らないが。
手の内を明かしてしまうと、最近の私はいわゆる「綺麗売り」をしている。
生来の鋭さや毒がなくなったわけではなく、書く前に、発話する前に、一呼吸おくようにしている。ここでの文章にこのような文体を用いるのも、思考に枷をつけるためだ。
思ったままに書けば速い。口語体なら勢いもあるし、親しみも感じる。多少の毒であればスパイスとして成り立つが、私はいま、そういったやりとりに対して懐疑的になっているのだ。
優しさとまだるっこしさは背中合わせである。独りよがりの理解や安易な断定は相手を傷つけてしまうから、どうしても言葉数は増えるし、思考を差し挟むことも多くなる。
それはとても根気がいることだし、時間がかかる。面白さとは程遠く、テンポのよさから生まれる会話の醍醐味も失われる。面倒くさい、辛気臭いと敬遠されるのも仕方ない。
それでも私は、その面倒臭さと向き合ってみたい。
「頑張れって言葉は好きじゃないけど」といいつつ励ましてくれる人がいる。私はその人に「頑張れ」といわれても嫌な気持ちはしないけれど、そう思うのは、言葉の選び方に慎重さを感じるからだ。
従前の私は、会話はテンポだ、と思っていた。不愉快に感じたとしても、流れをさえぎってまで「そういう風にいわれると悲しい」と表意することは無粋だとも思っていた。自分からも結局的に参加していたから、一方的に責める気もない。私も加害者である。
しかし、心身ともに参っていた間、他人と関わりたいという気持ちが起きなかったのは、本心ではそういったやりとりに自分が傷ついて、疲れていたからなのだと思う。
彼らが悪い人というわけではないし、ごく普通の善良な人間ではあると思う。仲間を大事にしたいという気持ちは当たり前に持っているし、元気がなければ励ましたいという優しさも持っている。
私が些細なことで傷つきやすいというだけの、ミスマッチだ。
結局の所、これは思考がどこまで深いか、という話になってしまうのだろう。私が優しさを感じる人は、よく観察してよく考える人でもあるからだ。
その場の楽しさ、それも大切であるけれど、そんなものはことさら冗句を飛ばしたりしなくても生み出せるものだと思う。
あなたのことをしっかり見ていますよ、というメッセージを丁寧に発し続けるだけで、相手の表情は次第にほころんでいくし、心の内を語らせようとしなくても語ってくれるようになるのだ。
そしてその土台となるのは、「私が見るこの人の性質は一側面に過ぎず、それだけでは全体を断定することはできない」という冷静さだ。
そう、推理小説の探偵が、真相に迫る手がかりを拾い集めるような。
冒頭に引用したのは、私が優しさについて考えるときに思い出す、推理小説の一節だ。
これを語っている人物は読者の視線からしてもとくに優しくはないし、当人もそうだとは思っていないだろう。それどころか「頭は切れるだろうが人の心はわかっていない」とほかの登場人物に指摘されて、「その自覚はある」と返答するくらいである。
けれども、人の心がわからない自覚がある、と答えられることこそ、この人物が優しい心の持ち主である証明だ、と私は思うのだ。そうでなければこんなことをいえはしまい。
果たしてそれが正解かどうか、作者が亡くなってしまったので迷宮入りしてしまった。ならばひとつ、私が名探偵を名乗り、現実の世界で謎の解明に乗り出してみるとするか。
執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!