およそ正気ではないけれど
一年ほどライブ活動をしていなかった期間がある。
もともと自身の活動の方向性を見失っていたこと、転職したことで身体がまったくついていかなくなったことなどがあり、すっかり音楽への情熱を失ってしまったのだ。
休止中も知人のライブには顔を出したりはしていたが、次第に足が遠のいてしまった。顔を合わせると二言目には「いつになったら復帰するのか」という話だからである。
気にかけてもらえるだけありがたいと思うべきかもしれないが、自分の中でそれでいいと思っていることを、他人にあれこれといわれるのが苦痛だった。
仕事についても同じである。これからどうするのかとか、新しい仕事は決まったのかとか、そんなことをごちゃごちゃといわれたくない。
だいたい、自分が何をどうしたいのかもよくわからない状態だったのだ。頭の中はひたすらに、休みたい、それだけである。
こんなことは今だからはっきりと言葉にできるのだが、すっかり潰れてしまっていた私には、交流を断ち切るという消極的な行動しか取れなかった。理解を求めるということすら億劫だった。
そんな中で、新たに出入りするようになったライブハウスがある。
あちらからコンタクトがあった時はなんとか前向きになろうとしていて、ライブをやってみようかという気分だったのだ。客としては行ったことがあり、気になっていた会場だし、と引き受けた。
しかし、その直後に家庭内で事件が起き、すべてに抗う気力が萎えてしまった。仕事を辞める決意を固め、会社に話を通したのか、通す手はずを整えたのか、そんなタイミングでの出演だった。
担当のスタッフと雑談中に仕事の話になり、製造業をしている、でも辞めるという話をしていた。
どうせどこかで聞いたようなことをいわれるのだろうと後ろめたい気分だったのだが、返ってきたのは「自分も無職やってました!」という屈託ない言葉だった。
「二年まではいけますよ」と付け足された時は、さすがに狼狽した。
……何をいっているのだ。正気か。
同時に、肩の力が抜けるのを感じた。ここでなら私はなんとかなれるのかもしれない。
人が立ち直るときに必要なのは、正しさではないのだ。
確かに明るく楽しく生きていければ最高には違いない。それを維持するための努力もあっていいし、それを生きる強さというのかもしれない。
けれど、どうしてもそうは行かないときもある。
なにがいけるで、なにが大丈夫なのかはわからないし、その言葉に潜む苦々しい実感と自虐も聞き取ってはいたけれど。
私には、彼がそこにいて、私と正対していた、その事実こそが大丈夫さの証明のように思えたのだ。
執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!