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夢の話とサンタクロース

眠りの浅い日が続いたのか最近は夢をよく見ている。だいたい朝起きたときには覚えていないのがほとんどで、起きてすぐに反芻しない限り、記憶の何処かに埋もれてしまう。


昨夜みた夢は限りなく日常に近くて、ただ一つ違うことは母親が出てきたことだ。母は数年前に他界しているのだが、夢の中では自然に私と過ごしていて、夢の中の私もそれを受け入れている。

たまに夢の途中で母は死んだはずだから、これは夢だなとわかっていたりする場合もあるが、その場合はなんだか居心地が悪い感じがして、気づいたあたりから展開が過剰になってきている感じがする。


こうなって欲しいと思うことは起こらなくて、こうならないでほしいと思うことは起こったり、それかまた別の展開がすでに自然と起こっていたりする。順序立てて起こる話のほうが珍しくて、ほとんど支離滅裂な感じだが、ただ残る光景や感情があるのが私のだいたいの夢ということだろう。


今回の母の夢はただ感情は静かで、生前の感情をむき出した状態の母ではなく、平坦な感じの母であった。だから、こんなにも起きてからも印象に残っているのかもしれない。


あぁ夢で良かった、あぁ夢だったのか


起きたときにそう思う感情に揺られている朝はなんだか居心地が悪いので、最近の私はいつも夢を見たくないと思ってしまう。


とても素晴らしい夢、異空間に迷い込んだり、現実世界では体験できないことを見せてもらって、感動したり、自分にとって好都合なことばかり起こる事を求めて現実逃避していた幼年や十代の頃などは寝る前はなにかドキドキした期待があって、楽しみであった。それほど現実が楽しくなかったせいだと思う。
そんな事を願って布団に入っていたのは、それは本当にまだこれから始まるまだ見ぬ現実に期待していたからだと思う。

夢とは違うが、私の中で起床時にがっかりして、なんとも言えない感情になって苦く思い出されることがある。


まだ小学校低学年のクリスマスの時期。その頃はサンタの存在はいるのかいないのか本当にわからなくて、でも薄々、家の人が用意してくれている感じなのは勘づき始めていた。

一応、枕元に欲しい物など書いておいていたと思う。

クリスマスの朝、淡い期待で起きると私の持っていたお気に入りのぬいぐるみと一緒にどこかでみた字で、

「〇〇ちゃんのプレゼントは用意できませんでした。ごめんなさい。サンタより」

と書かれていたカードとコンビニで売られていたお菓子の長靴が枕元に置かれていた。過剰な期待はしていなかったので、カードをつけてくれたのだからそれで良しとしようと思い、ただこの字は兄の字だなとわかった。 

あ、サンタなんていない。


私は大人の対応で、寝ぼけ眼のフリをして、ずさんなサンタ企画の母と兄がいる台所に行き、プレゼントは用意してくれなかったけど、お菓子はあるね、と演技をしてその企画を終了させた。母と兄、二人はお互いを目配せしながら、あぁなんとかなってうまく誤魔化せたような安堵の表情をしていた。

私は、子供のままにさせてもらえない家を憎んだ。友達にもそんな話は一切しなかった。そして翌年からサンタのお願いカードは終了した。


夢を見ている間、夢から離れて現実に戻る瞬間を思うとき、私はこの出来事が想起されてしまった。寒い冬の出来事だからだろう。


時を経て、わたしは夢でもサンタでもなく、現実のこの生きている中で、感情に揺さぶられたいし、創り出されたものを見たいと思うようになったのである。

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