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“どこに視点を合わせるか”だけ
ちょっとした拡大意識の話
琵琶湖の浜辺に寝そべったある夜、満天の星は一つ一つが踊るようにキラキラしていて、雲の層、近い星、遠い星が認識できるようだった。
星に意識を合わせているが、視界の下の方では波が右や左や遠くから聞こえてくる
かと思えば、遠くで鳴り響く音に意識も行く
なんだ、全部、全部あるんだ
要はどこに意識を合わせるかなんだ
わたしに意識を合わせれば、思考の声がする
砂を感じる手、風を感じる肌、波音を聞く耳
でも私に視点を合わせなければ、
ここに存在する砂粒の一つと同じにすぎない
この感覚を誰かに伝えたいと思ったのだけど、そうしていくら言語化しても、100%そのままを伝えることは絶対にできない
だって、これは“わたし”というフィルターを通して感じたり思考してることだから
わたしに視点を合わせなければ、砂粒と同じだと感じたとき、とても空虚に感じた
じゃあ何もしなくていいじゃないか
ただあるだけでいいじゃないか、と
じゃあなんで人は皆、こうしたいという思いにかられたり、何かを変えたいという使命感を持つのだろうか
何もしなくてもいいのに
なにかしても意味なんてないかもしれないのに
なんだか無気力になった
でも、こうして湧き起こる情熱や、思いは
その人のフィルターを通してのみ生まれる
同じものを見てても
全く同じ感じ方というのはありえないのだ
じゃあ、この“わたし”が感じきっていること、考えていることをわたしが認め、それだけに集中する
それでいいんじゃないかと思った
誰かに聞いてほしい、認めてほしいという思いを持ってしまうのが人間なんだなー
でも、無理なんだよ
共感してもらうこと、賛同してもらうことはできても、完全に一致することはないんだよ
だから、ある意味
わたし以外に期待しなくていいんだ
そんなことが少し見えた
じゃあ何故、人は共に生きるのだろう?
影響し合う
というのが今のところの答かな
影響しあって、より良い方向に向かうために
人々は共に“ある”のかもしれない
こうして、哲学が始まってしまうわたしの頭の中も、“わたしだけ”なのだから、あまり嫌わずに
大切にしよう。
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