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自分のことを人に話すということ

自分のことをよく知っている人には、自分の過去、エピソードを話すことはあまりない。自分のことをむやみに人に話すのも好きではない。

先日、大学の先輩とお出かけした。

近況は話すものの深い話をする機会がなかったから、ご飯食べたり歩いたり、その間にお互い自分のことを話した。話の中には、予想通りなこと、予想とはずれること、先輩の様々なことを知れた一日だった。

私に対してよく質問する先輩だったから、自分のことをすごく話した一日でもあった。こんなに自分が話していていいのかと思ってしまった。接待を受けているかのような感覚に陥るくらい自分が話していた。気分は悪くなかった。


自分で言うのもなんだが、20数年しか生きていないのに話すエピソードは多い方だと思う。例えば、小学生の頃に学級崩壊を経験したし、中学生もなかなか特殊だったと思う。高校でも、良い意味と悪い意味の両方で校長先生に名前を覚えられた学生だった。
振り返ると、学校という環境の中での経験は多い方だと思う。

ただ、狭い田舎に生きていて、自分のことを知っている人ばかりが周りにいたから、自分のことを話す必要がなかった。だって知っている話だから。

大学はその田舎を出てきて入学したから、自分のことを話すことは増えた。でも、深く聞かれないし、みんなが聞くのは「今の私」のことで、誰も「過去の私」についてあまり聞かない。

私は、「人の過去」も含めて知りたいと思う。どうして今このような感じを受けるのか、過去から知りたいタイプ。みんなに質問するけど、自分のことは聞かれない。ムズムズする。


持論だが、その人がなぜそれを好きなのか、嫌いなのか、その考えに至るのか、なぜそれを持っているのか、その人の過去の話を聴けば納得いくと思っている。

あと、自己開示というのは一番難しいことではあるものの、その人との関係性を深めるか否かを決めることができる方法だと思っている。上手くいけば信頼感や親近感、関係性は深くなりやすい方法だと思う。どこかでそのような論文を読んだこともあった。

ただ、話したくない過去や思い出したくない過去、自分の中にしまっておきたい過去、そういう過去はもちろんあると思う。それを詳しく聴く気はない。私にだってそんな過去はある。
「話したくないような過去がある」ということを話してほしいと思っている。

確実に持論だから異論は認めるが、過去を語るときは自分自身を偽れないから、その人の素の姿を少し垣間見ることができる気がしている。その素を少しでも見たいから過去を話してほしいのである。もちろんこれは自分が過去を話すときもそうで、過去を話すときは、今の自分、偽っている自分、少し仮面をかぶっている所から抜け出せるような気がする。


先輩とのお出かけで、先輩から「もっと早く話せばよかった」と言われた。私も先輩の過去をもっと早く知ればよかったと思った。深い話ができそうな、先輩の目線で見るこの世界を話してもらいたかった、聴きたかった。

残念なことに、先輩は4月から地元に戻るから、今のようにすぐに会えるような距離ではない。

さみしい。

もっと知りたかったし、もっと話したかったな。

またどこかで。


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