念能力者、呪術師、あるいは超人。 毎日小学生新聞の非論理性は、個性を生かした異能力バトルだった
「毎日小学生新聞」の記事が非論理的です。最後まで読まないと何が言いたいのかわからないし、下手すると最後まで読んでもわかりません。
まずは論理的な文章について、専門家の意見を引用してみましょう。論理的な文章の書き方について多くの著書がある小野田博一氏は、『論理的な小論文を書く方法』の中で、次のように述べています。
また、ビジネス文章について多くの著書がある倉島保美氏は、『論理が伝わる世界標準の「書く技術」』の中で、こう述べています。
つまり、結論である「要するに何が言いたいのか」は、文章の早い段階で明言されなければならないのです。なぜなら、それが分かりやすい文章だからです。文章は、初めから後に順を追って読んでいくもの。故に初めに結論が書いてあれば、読み手は「要するに何が言いたいのか」を頭に入れた状態で読むことができます。もしも初めに結論が書いていなければ、読み手はどこに向かうのか分からない状態で文章を読み続けねばなりません。これは、ゴールを示されない中でのランニングに譬えられます。ゴールが分からなければ、走っている当事者は「どこに行けばいいのだろう」「いつまで走ればいいのだろう」と不安を感じます。同じように、結論が初めに明言されていない文章は、読み手に負担をかけるのです。
幼い子どもの話を聞いていると、「要するに何が言いたいの?」と聞き返したくなることがあります。子どもの話はなかなか要領を得ないので、どこに向かって話をしているのか分かりづらく、イライラしやすいのです。毎小新聞の記者は、読み手である子どもに合わせるために、自分たちの記事までも子ども並みの論理構成にしてしまっているのでしょうか。
(1)空間移動の特殊能力。遠くに飛ばして答えをはぐらかす
これは、毎小新聞(2023年4月15日発行)の「まるやま昆虫相談所」に寄せられた質問です。この相談所では、子どもたちからの質問に答える形で記事が書かれています。この質問に対する答えを以下に記載。海苔子ちゃんの質問に対する答えはどこにあるでしょう。
いかがでしょう。海苔子ちゃんへの答えは見つけられましたか? 「虫に感情はあるのかどうか」を知りたくて読み始めるのに「まずは、感情や感覚は何のためにあるか考えてみましょう」と、いきなり遠いところに連れて行かれます。「ヒロアカ」や「呪術廻戦」など、少年漫画ではキャラクターの個性を生かした異能バトルが人気ですが、この記者は空間を操って読み手を遠くまで移動させようとしているのでしょうか。
1段落目を読み終わり、2段落目の冒頭に「さて」とあるので、ここから質問への答えが展開されるのかと思いきや、まだまだです。「昆虫の脳の働きを考えるとき、そのような感情が必要かどうかを考えてみましょう」と、相変わらず外堀を埋める作業が続きます。
そして2段落目を読み終え、3段落目に移ると、「ただし」の文字が目に入ります。「ただし」は「追加」を表す接続詞。なんと、質問への答えはもうすでに終わっているのです。どうやら記者の結論は2段落目にあるのだと推測できます。
2段落目に引き返しましょう。質問への答えはこの段落にあるはずです。「感情には意味がありますが、逆にほとんど必要なものしかないのです」と書いてあり、この表現もわかりづらいのですが、かろうじて「昆虫にとって感情は必要である」と解読できます。2段落目の中盤には、昆虫にとって感情が必要である例が書かれています。そして2段落目の後半に「おそらく海苔子ちゃんがあげた例のなかで、人間の感情に近いのは、「怖い」と「おなかがすいた」かなと思います。」とあり、この一文が質問に対する答え、つまり結論であると解釈できます。他に結論のような一文は見られませんので。この一文をわかりやすく書き換えると
「虫に感情はあります。なぜなら、虫にとって感情は必要だからです。アゲハの幼虫のくねーってなるのは、人間で言えば『怖い』とか『おなかがすいた』という感情に相当します。」
となり、これが結論とそれを支える根拠であって、質問に対する答えなのです。
3段落目の文章は、この結論への追加情報です。「ただし、虫に感情があると言っても、人間の感情とまったく同じではないよ」という内容の。
文句をつけたい箇所は他にもあります。例えば「虫に感情はある。なぜなら、虫にとって感情は必要だから」という理屈。「『感情は必要。故にある』っていう理屈は成り立たなくない?」などとケチをつけたいのですが、今はそっとしておいて先に進みましょう。
結論が明言されておらず、最後まで読んでもいまいちピンと来ない。「要するに何が言いたいの? 質問に対する答えは何なの?」と聞き返したくなる。この記事は、非論理的な文章・伝わらない文章と言えます。
(2)時を司る能力。読み手の都合はお構いなしの時間旅行。
今度は2023年3月6日発行の毎小新聞から記事を紹介します。『疑問氷解』というコーナー。こちらも読者の質問に答える記事です。
思い出してみましょう。「何が言いたいのか」は、早い段階で明言されていなくてはなりません。それが分かりやすい文章の書き方だからです。どこに行くか分からないで連れ回されるのでは、神経がすり減ります。そして、下記が質問に対する答えです。
どうでしょう。またもや結論が初めに明言されておらず、私たちは「結論は何なんだろう」と不安な中で読み進めるしかありません。
冒頭、まずは百貨店の現状から入ります。「売り上げが落ちている」という、質問を肯定する内容。この入り方は、「唐突さを避ける」という意味で正しいと言えます。文章の冒頭からいきなり結論を出すと、突拍子もない感が出るので。ワンテンポ置いて、唐突感を避けたのでしょう。
ですが、その後がいけません。「どうしてなのか、歴史を振り返ってみましょう」と、歴史の旅に連れ出されてしまいました。まさかの時間旅行です。異能バトルでも「時を司る能力」はチート級として重宝されます。「歴史を振り返ってみましょう」は時間の操作。まさかの「時を司る能力」発動です。
2段落目から6段落目まで時間旅行は続きます。7段落目に「ところが90年代を堺に、百貨店は苦しくなりました」とあり、百貨店苦境の原因説明が始まることが暗示されています。ですが、ここの説明も要領を得ません。初めに苦境の原因を簡単に説明してくれていれば、その後の細かい説明も頭に入りやすかったのです。例えば「苦境の原因はインターネットの普及です。百貨店に足を運ばなくても買い物ができるようになりました。例えば……」のように。けれど簡単なポンっという説明もなく、凹凸感のない説明で時間旅行を続けられるので、読み手の不安が続くのです。「結局、苦境の原因は何なんだろう」「どこに原因が書いてあるのだろう」と。
記事をよく読むと百貨店苦境の原因は4つ書かれています。経済の停滞、インターネットの普及、競合他社の台頭、風習の退潮。
読み手の納得をうながすには、これらをサラッと書くだけでなく、もっと深掘りすべきだったのです。これら4つが百貨店苦境の原因であることを論証しなくてはならなかったのです。そうすることで、「なるほど。そうであれば、これら4つが苦境の原因で間違いないね」と読み手に納得感が出てきます。記事のようにサラッと書かれただけでは、疑問が残ります。例えば「買い物だけではない娯楽の場の提供は、百貨店もしていたんじゃないの?」「風習が失われつつあることがどうして百貨店の苦境に繋がるの?」とか。時間旅行などしてスペースを潰している場合ではありませんでした。もしも時間旅行などしなかったら、苦境の原因が4つであることを説得力をもって説明できていたでしょう。時を司るよりも、説得力を出すために論証する能力が、ここでは求められていたのです。
(3)そもそも通用しない。すべてを無に返す絶望
空間移動、時間旅行と、時空それぞれを操る能力を見てきました。ですが毎小新聞の非論理性は、これだけにとどまりません。奥は深いのです。
以前、映画『Xメン フューチャー&パスト』を見た時は圧倒されました。ミュータントを狩るロボット・センチネルの強さにです。センチネルは攻撃してくるミュータントに応じて能力が変わるため、ミュータントの攻撃がそもそも通用しません。炎属性の攻撃をすれば氷属性に変わり、氷属性の攻撃をすれば炎属性に変わります。しかもセンチネルはロボットなので感情がなく、攻撃は単にミュータント遺伝子への反応。ただただ無慈悲に圧倒するのがセンチネルです。個々の能力でもミュータントを圧倒するのに、そのセンチネルが何千体と空から降り注ぐ光景は、ミュータント及びその視点に立って見ている視聴者にとって、絶望でした。
これまで散々に毎小新聞の記事を批判しておいて何ですが、先に紹介した2つの記事が非論理的なのは仕方がないとも言えます。というのも、書いているのは文章の専門家では無いであろうからです。空間移動は生物学の先生、時間旅行は社会学の先生がそれぞれ書いていたのかもしれません。自身の専門分野が別にあるにも関わらず、毎小新聞に記事を寄稿している。であるならば、その文章に論理性まで求めるのは酷な気もします。今度は文章の専門家の記事を見てみましょう。
『哲学カフェ』というコーナーが毎小新聞にあります。哲学カフェは「一つだけの正解がない問いを語り合う哲学対話」との事。まずは哲学と文章の関係から説明します。
哲学を標榜するなら、伝わる文章を書けなければなりません。というのも、哲学は物事の根本を論理的に探求する学問であり、伝わる文章とは論理的に書かれた文章だからです。哲学で扱う分野「物事の根本」は、主観的になりがちです。例えば
「生きていくのに大事なのは何か」
「世の中を動かしているのは何か」
などが哲学で考える分野。ですが主観的な考えだけでは説得力に欠けます。
「生きていくのに大事なのは、人との絆だ」
「欲望こそが、世の中を動かしている」
とだけ言ったところで「それってアナタの意見ですよね」と言われて終わりです。他の人が考えても、誰が考えても同じ結論にたどり着くように論理的な説明を加える。そうすることで、その意見はいくらかでも客観性を帯びるのです。例えば、
「生きていくのに大事なのは、人との絆だ。なぜなら、不幸な時に助けてくれるのも、幸福になるのを助けてくれるのも、どちらも人との絆だからだ。東日本大震災の時、被災者は『人との絆で助かった』と言っていた。成功者の〇〇は、『人との絆でここまでこれた』と言っていた。このように、不幸な時に助けてくれるのも、幸福になるのを助けてくれるのも、どちらも人との絆だ。だから、生きていくのに大事なのは、人との絆なのだ」
のように。物事の根本を探求し、それを客観的に表現するには、論理性が必要。つまり哲学というからには、その文章に論理が伴っていなければならないのです。
そんな、論理が伴ってしかるべき「哲学」カフェ。このコーナーの回答者は、記事の中で自己紹介もされており、錚々(そうそう)たる字面のメンバーが並びます。「〇〇大教授」「〇〇大学院講師」……。錚々たるメンバーによる哲学談話とはいかなるものか見ていきましょう。まずは2023年4月6日の哲学カフェから。論題はこちら。
まさに「哲学」カフェに相応しい問いです。私たちは10代の大半を学校で過ごします。けれど本当に学校には、それだけの時間を過ごす価値があるのでしょうか。子どもは「学校に行かねば」という圧力の元で学校に通います。しかし、大抵の子どもにとって学校は嫌なもの。私たちは、嫌なものに10代の大半を捧げているのです。学校の本分は勉強と言われ、しかし勉強は家でもできます。私たちは家で勉強できるにも関わらず、どうしてわざわざ学校に通わねばならないのでしょうか。
それに対する、哲学カフェ回答者・大学院講師ゴード氏の答えがこちら。
ゴード氏の答えは、質問にまともに答えないものだったのです。このカフェの論題は、「家で勉強できるにも関わらず、どうしてわざわざ学校に通わねばならないのか」だったはず。質問者である小2と9歳の子は、ただこの質問に対する答えが聞きたいのです。それなのにゴード氏は、「一番大事なこと」と前置きして、答えにならない話から始めてしまいました。自分が大事と思ったことが大事。これは主観的です。学生の小論文にもよく見られます。「AかBか」と聞いているのに、「AかBかにとらわれてはいけない」とか「もっと大事なことは〇〇である」とか。このような答えを読むと、「あえて質問しているのだから聞いていることに答えてくれよ」と思います。
質問した子どもも、「何がなんでも学校に通わねばならない」とは考えていないはず。学校に行くのは「絶対」ではない。それでも「学校に行くように圧をかけられる理由は何なのか」と哲学的な問いをふっかけて来ているのです。
それなのにゴード氏は、自分が答えやすい答えで応戦してしまいました。「なぜか?」と聞いているので、それに対応する答えを用意するべきでしょう。哲学カフェは、一つだけの正解がない問いを語り合う場です。自分オリジナルの意見を、いかに論理的に説明できるかがキモです。それなのに、「つらいなら行かなくていい」ではオリジナルの欠片もありません。
ゴード氏の答えは、ミュータントを蹂躙したセンチネルと重なります。相手がどんな問いを使おうと関係ない、どんな攻撃をしようと効かないのですから。
(4)相手の問いをそのまま返す。またもや現れる絶望
もう一つ、答えになっていない答えを紹介します。2023年4月13日の哲学カフェから。
これに対する、哲学カフェ回答者てつがくやさんマツカワ氏の答えがこちら。
これもよくありません。質問を質問で返してしまっています。「言葉で伝えようとするのかな?」「誰かに言ってほしいのかな?」と。これでは主張を明言しておらず、論理性の欠如と言わざるを得ません。論理的な意見の中心には、主張があります。主張に客観性を加えるために、理由を書き、例えを持ち出し、データを載せるのです。主張がなければ、理由が書けず、例えもデータも載せられません。論証のスタート台にも立っていない状態です。ミュータントの攻撃をミュータントの特性で返す。これもセンチネル……。
マツカワ氏は、2段落目を主張とすればよかったのです。「一度はそう考えてみたけれど、やっぱりダメだ」と、2段落目を3段落目で否定していますが、この否定は余計です。2段落目で「仕方ない『のかもしれない』」などと弱気な表現はせず、「仕方ない」と断定すれば良かったのです。例えば
「大人が子どもにお手本を示せないのは、それが仕方のないことだから。子どもは昼間、学校から帰ってきた後にゲームをする時間をとれる。だけど大人は仕事や家事で忙しくて、夜中ぐらいしかゲームで遊ぶ時間がない。だから、大人がゲームで夜ふかししちゃのは仕方のないこと。もし仮に、昼間にゲームで遊ぶ時間が十分にあったなら、わざわざ大人だって夜ふかしなんてしない。なぜなら健康に悪いから。美容に悪いし、次の日の生産性も悪くなる。そんな夜ふかしを誰も好き好んでしようととはしない。お手本を示せないのは、仕方のないことなんだ」。
このように主張すれば、哲学的な答えを提供できたのです。物事の一面だけで考えず、自分の認識の外にも事実があることを、子どもは知るのです。自分たちが遊んでいる時間に、大人たちが働いている様子を想像できるようになります。それから、論理的な文章にも触れる機会にもなります。質問に対して質問で返したりもしていませんし、「相手は子どもだし、やんわり答えよう」といった感情も排した論理的なやり取りです。質問した子どもにとって、論理的な文章を身を持って知るいい機会だったのです。
この主張は、マツカワ氏にとってもメリットがあります。当たり障りのない答えを出そうとせず、「仕方のないことである」とした方がオリジナル性があるし、それを論理的に説明することで哲学性が生まれます。より「哲学カフェ」の名にかなう会話になったでしょう。
以上、毎小新聞における記事をランダムに見てきました。
『まるやま昆虫相談所』は結論を見つけにくい。冒頭から質問とは関係のない遠くまで飛ばされ、2段落目にも結論は見つけられず、3段落目まで読むとすでに結論を通り越している。2段落目に戻って、文章を解読して結論を導き出す。
『疑問氷解』は答えが浅い。結論を期待して読み始めるのに、まさかの時間旅行。中盤以降に結論が見受けられますが、どれも薄氷並みの薄さ。時間旅行をしている場合ではなかった。
『哲学カフェ』はまともに質問に答えない。自分の言いたいことを書いたり、答えを書くべき場所に質問者への質問を書いたり。
つまり毎小新聞の記事は、最後まで読まないと何が言いたいのか分からないし、記事によっては最後まで読んでも分かりません。結論は読者に伝わらず、解読を強います。
これに対して論理的な文章とは、結論が早い段階で明言されなければなりません。なぜなら、そうしなければ言いたいことが読み手に伝わらないからです。
毎日小学生新聞の記事は、論理的な文章の条件に合致しません。故に、非論理的なのです。
参考
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