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弓道を射殺す

 わたしは、大学を卒業せずに中退した。しかし、所属していた弓道部は「卒部」した。
 どういうことかというと、中退したのは4年次に休学し5年次に復学した後のことであり、休学している間も部員としては継続し4年で満期をむかえるからである。
 大学の部活はどこもそうであると思うが、わが弓道部も3年次に「運営代」を務め、4年次はおのおの就職活動等で忙しくなるため事実上引退しサポートに回るというのが習わしであった。わたしは4年目に休学したので、同回生が就活や卒論に打ち込んでいるあいだ、畠を探しだして日々野菜の栽培を楽しんでいたのであった。その合間にふらっと道場に行き、後輩の練習を邪魔することもあった。
 ともあれ、わたしにとって大学はその初めからほぼ弓道教室でしかなく、それが終わってみれば大学にいる意味は消失した。

 今でも、休耕田でたまに弓を引くことがある。端にある二本のヒノキに横棒を結わえ、そこに莚(むしろ)を数枚掛け、的にするのだ。

 こんなことをしなくても近くに弓道場はある。だが、一度見学に行ってみると、そこは精神偏重主義的な流派によって運営されており、門徒が皆おもしろいくらい中らないにもかかわらず精神がどうのと云々する薄気味悪い集団だったのでやめた。(的中することを「中る[あたる]」という)
 わたしの弓道は、大学弓道出身ということもあり、的中中心主義である。的にむかって矢を射る以上、的中を重視するのは主義以前の至極当たり前のことと思われるが、世の弓道家においては必ずしもそうではないらしい。事実、社会人弓道家の的中率は一般に驚くほど低い。
 満足に中らぬうちから、技術的な部分をすっとばして礼節的な部分、精神的な部分をあれこれ言う人々をわたしは軽蔑する。心をまっすぐにして中るものなら中ててみよ。アホらしい。的に中らなくてなにが弓道であろうか。

 もっとも、武術が武道になった時点で、こうした問題は避けられないのかもしれない。
 ならばわたしは、自分が弓道をやっているとは言わない。的中てゲームでよい。なんの不都合もない。
 高尚な弓道の礼節だの精神だのをわたしは知らないが、ごくたまにしか弓を引かない今でも、やれば的中率は8割を切らない。当然だが、的中は徹頭徹尾技術的な問題である。内心がどうであれ、型さえ違わなければ中るのである。

 だいたい、的に臨んで外れてもよいとする精神が気にくわない。中る中らないにこだわらず泰然と構えるのを事とする欺瞞的姿勢より、目の前の的に意地でも中てるという気概のほうがよっぽど美しい。
 弓術でも剣術でも、元来は弓や剣で敵を倒す殺傷術であったはずである。「見事に殺す」というその主眼は、現代弓道においても的に矢を中てることとしてこれを引き継がなければならない。的を逸れたところに「道」などあってたまるか。

#弓道 #随想 #エッセイ

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