角川『俳句』二〇二三年一月号 柳元佑太氏『対話ー結社意識の変遷とハラスメント対策についてー』における形式面の失敗について

本記事執筆の意図

 角川『俳句』二〇二三年一月号に、掲載された柳元佑太氏の『対話ー結社意識の変遷とハラスメント対策についてー』(以下、当時評と記す)は、プロタゴラスとパイドロスという、プラトン対話篇の登場人物をクロスオーバーさせたパロディ形式を採用した時評だ。内容としては、明治以来の結社システムに由来する“俳句コミュニティ”の閉鎖性に言及し、その最たる現れとしてのハラスメント問題へと話題を展開している。そのトピックとしての価値は新規性にあるのではなく、手を変え品を変えて訴えていくことにあるのは納得できる。
 だが、当時評には不可解な点が多く、初読の際は粗のようなところにばかり目がいってしまった。柳元氏が『写生という奇怪なキメラ』にて昨年度の山本健吉評論賞を受賞したことは記憶に新しい。あの論考も、西欧絵画史における遠近法と視覚の価値的変遷を説明した前半部の力点が大きすぎて、論の展開としては稚拙さが目立ってしまっていた。とはいえ、従来的な「写生」概念をより根源的な、“美的感覚”の在処、のようなところから演繹していこうとする姿勢には感銘を受けた。受賞論考は、斬新さで人目を引くタイプのそれではないものの、既存概念の明確化と深掘りという点で、続編たる『波多野爽波論』に期待を持たせてくれるものだった。
 しかし、ここでは詳細を割愛するが、同人誌『豆の木』に掲載された岡田由季氏の角川俳句賞受賞作に対する考察で柳元氏の論者としての姿勢と適正に疑いを抱き始めた。現象学の用語であるheimlichを軸に『優しき腹』を読み解こうとしたみたいだが、ハイデガーに由来するheimlichの元々の意味合いを押さえ、咀嚼して用いていたのか疑わしい内容であった。「裂目」や「噴出」といったキーワードは文芸批評でよく見かけるものの、『優しき腹』にそれらを慣用的な意味合いで当てはめるのは牽強付会が過ぎるのではないか。
 そういった経緯を踏まえての、二〇二三年一月号におけるプラトン対話篇のパロディである。「粗のようなところに」と記したが、最早“粗”では済まされない冒瀆が、主に形式面に出てしまっていたのではないか。繰り返すが、内容そのものは何度でも訴えていく必要のあるものだと思う。だが当時評の形式面における失敗は、その内容の真剣味・真実味を殺しかねない。内容を際立たせる責務を負っているはずの当時評が、児戯にも等しい形式面の不備によって内容をも貶めていると考え、筆を取った次第である。

プラトン対話篇パロディ形式採用の是非

 本題に入りたい。結論から言って、当時評がプラトン対話篇パロディの形式を採用する意味と効果は皆無である。強いていうなら「ほう、ギリシャのてつがくしゃが対話している記事が俳句の総合誌に載っているとな」といった客寄せパンダとしての役割は果たすかもしれないが、それ以上ではない。そもそもがパイドロスとプロタゴラスという、プラトン対話篇でも別々の著作の登場人物を一堂に会させるのであれば、仮に見開き半ページ分であっても、その再現性を担保するには相当骨の折れる作業が必要であろう。当時評のパイドロスとプロタゴラスは、SNSに棲息する俳句愛好者がどこかしらで聞きかじったことのある“俳句コミュニティ”の動静を口にしているだけで、対話篇としての再現度は極めて低いと言わざるを得ない。ここに関しては柳元氏からの反論を期待している部分もあるが、わざわざ扱いにくい二人を採用して対話篇に仕立てた意図が見えづらく、読者に内容を響かせる効果は感じられない。
 旧来的な結社システムとインターネットを通じた“俳句空間”の話題、そこから現代俳壇におけるハラスメント対策の後進性に言及するのに、どうしてもプラトン対話篇のパロディという形式を採用したかったのであれば、まずもって素直にソクラテスとパイドロスの対話という形で良かったのではないか。プラトンが描くところのパイドロスは、ソフィストの小難しい理屈に心酔している浅薄な事情通、を基本の人物像としている。何も知らないフリのソクラテスが俳壇に降り立って、みんな高齢化して閉鎖的じゃないかと嘯いたら、パイドロスが『蒼海』『麒麟』、インターネットを基盤とした『楽園』や超結社句会に言及して、俳句も二十一世紀仕様へと変貌しつつある、とソクラテスに諭すところから始めれば、格調はさて置いてプラトン対話篇の雰囲気は出て来る。そこからソクラテスがハラスメントで苦しんでいる人々の声が聞こえるようだが、と問いを立てたら、パイドロスが結社システムの伝統に立脚して云々というどこかで聞きかじったようなご高説を展開する、という流れであれば、パイドロスに俳壇的権威の言説そのものを仮託することができ、諷刺としての痛烈さも高まる。
 当時評の通りにパイドロスとプロタゴラスのままで対話を展開していくにしても、原作のキャラクターを踏まえるならば発言内容のちぐはぐさは些かなりとも解消する必要があるだろう。少なくとも、パイドロスとプロタゴラスそれぞれの発言内容をお互い逆にしてもいいのではないか。リューシアスの最新論考を小脇に抱えてソクラテスの無邪気な感動を鼻で笑っていたパイドロスの方が、事情通のイメージに合う。ソクラテスとの対話を経た後のパイドロスという線も考えられるが、プロタゴラスに表面的な知識を吹き込まれるパイドロスというのは考えづらい。プラトンの原作を踏まえるならば、対話を重ねるうちにパイドロスとプロタゴラスの主張がどこか逆転してくる、という仕掛けを打つのも一興だが、そこまで凝るとなると対話篇再現のための手間はとてつもないものとなり、内容が薄れてしまいかねない。

『青』三三五号(一九八二年八月)

 実を言うと(といっても当時評の脚注に言及があるのだが)、パイドロスとプロタゴラスによる対話、というアイデアには先行者がいる。柳元氏が修論に取り上げたという田中裕明その人である。裕明が角川俳句賞を受賞した直後に刊行されている『青』三三五号には、ドラーマの現実化と詩の滅亡についての短い対話をフェドロス(パイドロスと同一人物)とプロタゴラスが繰り広げるパロディが掲載されている。田中裕明による再現度は極めて高く、ここに登場するフェドロスは良い塩梅にソフィスト然とした弁舌の流麗さを維持しつつ、ソクラテスにディアレクティケーと真の美文について諭された直後といった味わいを醸している。プロタゴラスも、時の流れを国家の成立に沈着させ歴史のリアリスムへと転換するという、ソフィストの親玉の面目に恥じない言葉尻の巧さを見せている。だが裕明によるパロディの真骨頂は、最後の二行でソクラテスの不在について言及される箇所である。

ところでここにソクラテスがいないのは何故だ。
―僕は知らない。彼が俳句の話でもすると思ったのか。

『青』三三五号 十七頁

 裕明の対話篇パロディにおけるメッセージとは、「俳句の世界にソクラテスはいない」なのである。そのもう一歩裏側に潜む意味合いの解釈は一様ではない。俳句は所詮第二芸術だからソクラテスの論ずる範疇にない、かもしれないし、俳句の世界においてソクラテスは忌み嫌われて相手にされない、かもしれない。詩が滅亡に瀕した「いまここ」において、ソクラテスは語る口を持たないのである。角川俳句賞受賞直後に裕明がこの小品を残した意義は小さからぬように思える。坪内稔典が『過渡の詩』において幾度となく“発句形式”と揶揄したものだけが「真の俳句」のような顔をして罷り通ってしまう現状を、裕明は痛烈に諷刺したのかもしれない。そして、裕明の懸念した傾向は現代俳壇で一層強まっているようにも思える。

柳元氏による「冒瀆」

 翻って当時評(柳元氏による角川『俳句』二〇二三年一月号時評)を見つめ直すと、それなりの字数を貰っておきながらなんとまあおざなりな・・・といった印象を抱いてしまう。流石に裕明オリジナル(?)と同水準を求めるのはフェアでないにしても、メッセージ性や諷刺的な“集約点”すら見いだせないのは如何なものか。ハラスメントに目と耳を塞ぐ「座」に対し、何の一撃も加えないまま流れていくだけの“お喋り”では、田中裕明とプラトン対話篇という素材の力を活かしきれていないどころか、かつてコミュニティに対して強いメッセージを発した両者に対する冒瀆であろう。また結社システムの閉鎖性とハラスメントという、まさしく俳句愛好者を糾合して「権威」に立ち向かい、乗り越えていくべき課題に関して、読者を掻き立てるような仕掛けを何一つ打っていないというのは時評として力不足とは言えないか。
 まして柳元氏は田中裕明に憧れているのではなかったか。裕明の初期散文を修論の軸に据えようとするほどの柳元氏が、『青』三三五号の小品を読んでいないとは考えづらい。だが当時評の完成度から鑑みるに、読み込みが足りないどころか、パイドロスとプロタゴラスの名前以外の部分を読み飛ばしたようにしか思えない。仮に裕明による小品の大半を読み飛ばしたとしても、最後の二行に目配せさえすれば、ソクラテスの不在の示唆にこそ裕明のメッセージが潜んでいるのではないかと勘付いて然るべきだろう。仮にここで述べたことを一通り浚った上で当時評の体たらくと相成ったのであれば、冒頭で述べたように柳元氏の論者としての適性を疑わざるを得なくなる。
 いずれにせよ、角川『俳句』二〇二三年一月号に掲載された対話形式の時評は、プラトン対話篇はともかくとして、俳句史に燦然と輝く夭折の麒麟児・田中裕明に対する侮辱である。諄いようだが、俳句コミュニティと「座」の閉鎖性やそれに起因するハラスメントの実態は、手を変え品を変え訴えていくべきアクチュアルな問題である。それだけ大事な内容を取り扱うのであれば、教養のなさと教養を誇示したがる幼児性を同時に露呈してしまう恥ずかしいやり方ではなく、拙くともあくまで自分のことばで紡ぐ必要があったのではないか。

推敲案

 本記事も終わりに近づいてきたわけだが、柳元氏に対する論難ばかりではなく、ここで僭越ながら時評の推敲案を示したいと思う。ホモソーシャルだの貉だの、毒にも薬にもならない締め方よりは好ましい結びも考えた。
 まず先述したように、全体としてパイドロスとプロタゴラスの発言内容を逆にすることが基本線である。パイドロスはインターネットの発達によって超結社コミュニティが形成されつつあることをプロタゴラスに得意気に説き、プロタゴラスは終始まごまごする。小見出しの変わり目付近で、プロタゴラスが新時代俳句には明るい未来ばかりが待ち受けてるのかと問い、パイドロスが旧来的な「座」の意識に起因するハラスメント対策の後進性を指摘する。そこでプロタゴラスが、ハラスメントは徳に反する不利益な行為であり、被害者が生まれないように「座」が統一的に対処するべきだと説くと、パイドロスが“美的追及”や”人間的繋がり”を盾にとって、「座」を擁護しつつ「座」におけるハラスメント対策は難しいと、手のひらを返したようなことを言い始める。パイドロスのあからさまな二枚舌に多少言葉を失い気味になったプロタゴラスが、最後にソクラテスの所在を問う、というものである。
 結びでは田中裕明同様、ソクラテスの不在を示唆しては如何だろうか。以下に一案を示しておく。

プロタゴラス:ところで今日もソクラテスが不在だったわけだが、彼はどこで何をしているんだ。
パイドロス:知らないのか。彼はつい先日毒を飲んで死んだよ。

 「毒を飲んで死ぬ」とは死刑宣告のことである。ソクラテスは死刑宣告を受け、自ら毒を呷って死んだのである。現代人から見ればあたかも自死であるような手続きを踏んで、共同体によって殺されたのである。ポリスがソクラテスの口を塞ぐためには、ソクラテスの命そのものを奪うしかなかったのだ。この結びによって、俳壇に限らず、前時代的な空気を澱ませるコミュニティで起こる数々のハラスメントの帰結を示唆できると考える。被害を訴えた個人を、共同体が一層辱めることで精神的な死または社会的な死に追い込むことで、以後一切の「語り」を封じる。「邪魔者」を排斥した共同体は自らを省みることのないまま、語られたこと自体が記憶から抹消される。
 パイドロスを二枚舌に設定する意味もそこにある。仲裁役や中立派を装いながら権威の肩を持ち、あわよくば権威の歓心を買おうとする輩は、歴史のどこを切り取っても必ず存在した。パイドロスに読者の反感を着せるように仕立てるのは、プラトン対話篇におけるキャラクターを忠実になぞっているわけではないが、権威的な他者の言うことを鵜吞みにする浅薄な事情通という原作の人物像を踏まえるなら当たらずとも遠からずであろう。時評が必ずしも読者を掻き立てるものである必要はないが、プラトン対話篇を下地に置こうと思うのなら、ある程度の諷刺的要素がなければ力を持たない。ましてや田中裕明の『青』三三五号十七頁の小品に敬意を払うのであれば力不足が尚更際立ってしまう。

終わりに

 柳元佑太氏による角川『俳句』二〇二三年一月号掲載の時評『対話ー結社意識の変遷とハラスメント対策についてー』の失敗について長広舌をふるってきたわけだが、柳元氏からの反論もしくは『俳句』二月号での良い意味での裏切りを期待しているのも確かである。本記事を読んでいただいた方には、若造が中途半端な知識で教養人ぶったことに怒り心頭になっていると映ったことだろう。実のところ、私自身は教養人ぶることも中途半端な知識を披露することも否定しないし、責め立てることもしたくない。だが今回の柳元氏の時評の完成度は「中途半端」の域にすら達していない上、あろうことか山本健吉評論賞受賞者の実績を引っ提げて最も影響力のある総合誌に載ってしまったのである。例えばこれが修論執筆中に集中力が途切れ、Twitterに連投されたものであったのだとしたら、私も面白がって眺めただろう。しかし角川『俳句』に掲載するにしてはあまりにお粗末と言わざるを得ない。若い身空に重圧をかけるようで恐縮だが、柳元氏にはもっと責任を自覚して欲しいと思ったのが正直なところだ。
 教養は教養人ぶることによって次第に身についてくるだろう。だからその努力を怠って欲しくない。どうしてもパイドロスとプロタゴラスの対話形式にしたいのであれば、にもかかわらずプラトン対話篇についての体系的な知識がないのであれば、限られた時間の中でクオリティを一端のものに仕上げるにはどうすればいいか。それをもっと真に迫って考えて欲しかった。もっと真面目にディレッタントをやって欲しかった。そして何より、柳元氏が敬愛しているはずの田中裕明を、柳元氏自身がなおざりにしているように思えて、悲しくなった。
 詳細は記さないが、私にはかつての“第一芸術”は既に敗北しているという持論がある。私自身は俳句が好きだし、俳句にはポテンシャルがあると考えているが、肝心の論者が「知」に対して淡白なままでは、俳句は永久に“第二芸術”のメビウスの輪から抜け出すことは叶わない。いわんやリスペクトを公言している作家を貶めるような行いは言語道断だ。柳元氏には深く反省して欲しいし、繰り返しになるが、願わくば反論、もしくは『俳句』二月号以降での面目躍如があることを切に期待している。

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