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大相撲の「連勝記録」について(前編)

このnoteでは初めて、大相撲について書いてみたい。私は小学生の頃から相撲が大好きで、知識を相当蓄えていた。当時は相撲ファンというよりも相撲通という感じだったのだ。今ではだいぶ興味が薄れているが……。

今回は大相撲における連勝記録について少し書くことにしよう。以下の内容は私のおぼろげな記憶を頼りに書いているところも多々あるので、間違っていたら教えていただきたい。


はじめに、wikiさんから幕内における歴代連勝記録を持ってこよう。

1位 双葉山 69連勝

2位 白鵬 63連勝

3位 千代の富士 53連勝

4位 大鵬 45連勝

5位 白鵬 43連勝

上位はこんな感じだ。wiki以外の記事を見てもやはりこう書いてある。

私はこの表には結構違和感がある。というのも、谷風の63連勝や、太刀山の56連勝などの記録が無視されているからだ。もちろん谷風は寛成の横綱だし、太刀山も大正初期だから古すぎるというのは分かる。しかしそれで言うと双葉山も昭和10年代で相当古い。基本的に相撲界の記録は、年6場所制となった昭和33年以降のデータでランキングを付けることが多い印象なのに、なぜ連勝記録は双葉山のものがランキングに残っているのだろう?やはり相撲史上に残る金字塔だからなのか。

この話はここまでとして、連勝記録に関するあれこれの逸話を並べてみることにする。


まず書きたいのはやはり双葉山の69連勝について。彼の連勝記録が止まったのは昭和14年1月場所4日目のこと。止めたのは後に横綱になる安藝ノ海だが、連勝ストップまでの経緯は、偶然が噛み合った面白いものだ。

史上1位の連勝記録を持つ双葉山は昭和以降最強の横綱とも言われ、最近では横綱白鵬が目標としていた力士としてご存知の方も多いことだろう。その連勝をストップした安藝ノ海は出羽海部屋の力士。同部屋の兄弟子には双葉山研究で名高いインテリ力士の笠置山がいた。笠置山は双葉山の右目がほぼ失明状態であることを知っており、双葉山の右足を狙えば勝機があるということは出羽一門の上位力士の間で共通認識となっていたのだ。

もちろん、その知識だけで当時の最強双葉に勝てるわけはない。偶然の1つ目は双葉山自身の体調が万全で無かったことだ。本場所前の巡業中に赤痢を患っており、休場も考えたほどだと言う。そして、もう1つの偶然は、双葉山は安藝ノ海と本場所はおろか稽古ですら取り組みが無かったことである。というのも、本来は巡業中に稽古する予定だったのだが、その時は安藝ノ海の方が体調不良で、稽古を断ったのだ。もし安藝ノ海が万全で普通に稽古していれば、果たしてこの「世紀の一番」は世紀の一番になっていただろうか。

それではその一番を見てみよう。

このいかにも無理矢理な掬い投げからも、双葉山も体調が万全でないことが伺い知れる。そして安藝ノ海の、右足を狙いすました外掛け。ちなみに大鉄傘とは当時の国技館の屋根のことで、「大鉄傘を揺るがす」というのは観客の熱狂ぶりを示す表現である。



白鵬の63連勝についてはよく知らないので、続いて千代の富士の53連勝について書こう。その連勝にストップがかかったのは昭和63年11月場所の千秋楽、横綱大乃国戦である。

千代の富士は昭和末期〜平成最初期の大横綱で、「ウルフ」の愛称で親しまれた超人気力士である。北の湖の次の土俵の覇者であり、その座は貴乃花に受け継がれた。美男で筋肉隆々、豪快な上手投げはウルフスペシャルとも呼ばれ、とても華のある横綱だ。

そんな彼の連勝を止めた大乃国は、横綱昇進直後の8勝7敗をはじめ不甲斐ない成績が続いていた。問題の昭和63年11月場所も、千秋楽まで10勝4敗。横綱のノルマと言われる12勝には既に届かない成績である。そして14日目のあと、師匠に「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだからヒヤッとさせる場面ぐらい作って来い」と言われてしまう。これに大いに発奮した大乃国は千秋楽の早朝から千代の富士の立ち会いを徹底対策。ついに千代の富士を撃破したのである。大乃国は取り組み後、「俺だって横綱だ」の名言を放っている。

結果的に、これが平成最後の大相撲となった。

これに関しては、千代の富士に油断があったことよりも大乃国を褒めたい。練習の甲斐あって、立ち合いで最高の位置の左上手を引いている。巨体がフルに活かされており、彼の取り組みの中でも最高クラスの完成度だろう。



お次は大鵬。この45連勝はまさに曰く付きという形でストップがかかった。有名なのでご存知の方も多いだろうが、この一番は「世紀の大誤審」として現代まで語り継がれている。それは昭和44年3月場所2日目、戸田戦でのことだ。

大鵬といえば、昭和30年代後半〜40年代前半に活躍した、歴史に残る大横綱である。ライバルの横綱柏戸と「柏鵬時代」(横綱白鵬の四股名の由来でもある)を築き、優勝32回は当時の最高記録であった。美男であったため人気も高く、子供の好きなものの代名詞として「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれたほどである。

一方の戸田(後の羽黒岩)は、小結が最高位ではあるものの、この一番で相撲史に名を残した力士だ。

肝心の相撲はと言うと、戸田が一方的に押し込んで土俵際、大鵬が回り込んで……行司軍配は大鵬。しかし物言いがつき戸田の勝ちとなった。しかしビデオを見てみると、大鵬が土俵を飛び出す直前に戸田の足が出ていたのだ。

戸田の足にご注目!

この1番をきっかけに、大相撲では物言いの際にビデオ判定が導入されるようになった。大相撲の意外な先進性と、大鵬の影響力の大きさが伺える。



ここまで昭和期の有名どころを軽く紹介した。後編では江戸時代まで遡って連勝に関するあれこれを書いていこうと思う。少しマニアックな話になるのでついてきていただきたい。


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