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若い貴族の盗賊ごっこ

 今回は、暇を持て余した貴族の遊びをご紹介。


 時は、平家が全盛期だった時代。源氏に倒される前、平家は宮中の要職を占め、貴族として楽しく過ごしておりました。平家が所有していた土地は最大で日本の半分ほどであったともいわれています。
 今年の大河は鎌倉時代ですが、受験生暗記必須の基本システム「御恩と奉公」は平家の没収した土地があったから成り立っていたというのも覚えてってくださいね。

 平清盛の子や孫は平家の公達きんだちと呼ばれ、とても人気がありました。権力者というと、嫌われているイメージがあるかもしれませんが、あくまでそれはライバルたちから見た憎々しさ。女房や下級貴族の人たちは、純粋に憧れのまなざしで彼らのことを見ている者も少なくなかったのです。

 特に、平家の公達はイケメン揃い! 所作も優雅で知性もあり、歌や楽器に通じる者も多くいたので、貴族の中ではアイドルグループのようなポジションでした。平安のジャニーズみたいなもんですね。ファッションも、彼らの着ている着物や着こなし方をこぞって真似して流行したとのこと。例えば、平家の公達が直衣をちょっと着崩してみたら、若い貴族が同じように着崩すみたいな。

学パロでたとえるとこんな感じ

 ファッションに限らず、「平家風」のことを当時は「六波羅様」と呼んでいたそうです。
 そしてその平家の公達といわれる若者たちについて特化して紹介している書物が、『平家公達草紙』です。

 『平家公達草紙』には、『平家物語』には書かれていないような、貴族としての華やかな一面が描かれています。そこに描かれる彼らには歴史の敗者、威張り散らす権力者という側面は見られず、そのとき確かに生きていた一人の貴族としての姿で描かれています。作者は諸説ありますが、彼らと仲がよかった人や、彼らの悲劇的な最期を悼んだ人が編纂したのでしょう。

 さて。冒頭に提示した「暇を持て余した貴族の遊び」について書かれているのは、「公達の盗人」と言われている章段です。


 安元三年(1177年)三月一日ごろ、雨の夜。当時は高倉天皇(16歳)の治世。この高倉天皇というのは、後白河帝と平滋子の間に生まれた子どもでした。この滋子は、清盛の二人目の妻、時子の妹です。ちなみに滋子の平姓は、伊勢平氏といわれる清盛の平氏とは別で、もともと貴族として生きていた平氏です。

 母が平家の親戚なので、高倉天皇の周りには、平家の公達や、平家と仲良くしている貴族がよく集っていたようです。


 この日集まっていたのは、

・三位中将 藤原基通(17歳)→摂関家出身。継母が清盛の娘。父はイケメンで性格も良かったらしいが、早世している。将来都落ちの際に平家から離脱する。

・三位中将 平知盛(25歳)→清盛の四男。文武に優れており、とても真面目な性格。将来壇ノ浦で「これから乗り込んでくるだろう源氏の武者たちに見苦しいものは見せられない」と言って船の大掃除を始めた。

・頭中将 藤原実宗(32歳)→楽器、特に笛がとても上手い。朝廷で行われる管弦の催しには大体いる。

・左馬頭 平重衡(20歳)→清盛の五男。文武に優れ、イケメンで、明るく、社交的な性格で、男女問わず人気があったそう(ただし将来乳兄弟に裏切られる)。特に女性にとてもモテたらしい。『平家物語』には源氏の捕虜になった後、元カノと円満にやりとりしている話がある。正妻からも愛されている。平家の中ではおそらく一番光のようなイメージの人。学パロのモデルになっていただいた。

・権亮少将 平維盛(19歳)→私の推し。清盛の長男の長男。いわゆる嫡孫。光源氏の再来と言われ、桜や梅にたとえられるほどの美貌と言われたことから「桜梅少将」というあだ名がついたという最強のイケメン。妻も美人。ちょっと押しに弱く、コミュ力は低い。

藤原隆房(29歳)→平家と姻戚関係が多い家系で、本人も清盛の娘と結婚している。平家の公達とはプライベートでも仲良く友達つき合いをしていたようだ。この話は、隆房の目線で書かれていると言われている。

 さて、このようなメンバーが、高倉天皇とお話をしていました。以下、少し台詞を交えて内容をまとめます。一部言葉を補ったり削ったりしているので、忠実な訳ではありません。ご注意を!


***

高倉天皇「雨が降っていて、どうもつまらん夜だなあ。何か目が覚めるようなことでもないだろうか」

基通「皆で楽器でも致しましょうか?」

 ぼやく天皇に、基通が無難な提案をします。しかし、

高倉天皇「そもそも、こんな雨の中、澄んだ音色も出んだろう。もっとこう、笑えるようなことがあればなあ」

と、もっと面白いことないかなー、とお気に召さず。そこへ。

重衡「さて朝臣の諸君、ちょっと一つ提案があるんですがね」

 おそらく、咳払いなどしながらでしょうか、勿体をつけて重衡が進言しに出ます。天皇は、

高倉天皇「いつものように重衡が、しれっと面白いことを言い出すぞ」

と、わくわくした様子で、重衡の発言を待ちます。いつもの(=例の)、ということは、重衡はアイデアマンというか、楽しいことを思いつくのが多かったのかもしれません。この辺り、若い男子のノリのようなものも感じますね。

重衡「ズバリ、盗人の真似をして、中宮の女房たちを驚かせるのです!

 この提案に、その場にいる面々は「めっちゃ面白そう!」とノリノリに。女房の立場になればたまったもんじゃないですが、おそらく修学旅行で「女子の部屋に突撃しようぜー!!」みたいな無邪気なノリで、悪気はないと思われます。しかし、ちょっと慎重な高倉天皇。

高倉天皇「しかし、『怪しいやつ!』と、途中の道で誰かに咎められたらどうするんだ? ちょっと難しいのではないか」

と、計画の実現性の心配をします。それに対し、重衡。

重衡「やばくなったら、『間違えるな、私だ』と、言いましょう」

 要するに、「いざとなったら開き直ればいいっすよ」って感じです。うん。職権乱用というか、身分高い人の発想ですね! 顔パス前提!

 とはいえ、「大勢で行ったら何かと都合が悪いでしょうね(目立つし動きづらいから?)。実行するのは一人か二人にしておきましょう」と、実行人数を縮小して行うことになります。
 この辺、知盛・実宗あたりの真面目な面子が、さりげなく自分をメンバーから外すように誘導した可能性もあるかなと思います。
 選ばれし突入班は、言い出しっぺの重衡と、隆房。二人は直衣の柄でバレることを危惧して、服を裏返して着ます。このとき、

「火の光だけとはいえ、禁色に見えるとまずい」

と、隆房の直衣の裏が禁色(=宮中で許可された人しか着ることを許されていない色。紫が一般的)に近い色だったので、念の為、維盛の桜色の直衣と交換します。思い付きの企画ですが、ちゃんとするところはちゃんとしている。あと維盛ピンク着てたの地味に可愛いですね。
 冠も包んで隠したようです。盗賊が冠被ってるわけないですからね。

 そしていよいよ実行へ。

 まず、警護などで宿直している貴族のところに維盛を行かせて、気を引かせます。一応、警備員さんと鉢合わせしないように対策を打ったということです。

 突入班のふたりはその隙に女房の部屋へ、抜き足差し足で向かいます。

 部屋を覗けば、女房たちは本格的には寝ていませんが、うとうととうたた寝をしています。因みにこの中には重衡の妻、輔子も居ましたが、当時既に結婚していたかは不明です。
 重衡と隆房は、ついに部屋に乗り込むと、手近な女房の、一番上に着ていた着物を脱がせます。このときは十二単とまでは行かずとも、何枚か重ね着していたようですね。脱がせてもまだいっぱい着てるから大丈夫☆
……いや、全く大丈夫じゃないですね。女房たちは、当然、本物の盗賊が来て襲われたと思うわけです。

「キャーーーーー」

と、もう阿鼻叫喚の大騒ぎ。その慌てふためく様子に、重衡と隆房は笑いそうになるのをガマンして、戦利品として他の着物も取って外に出ます。そして、すぐに直衣を着直して、天皇の待つ部屋に戻ったのでした。

高倉天皇「無事やり遂げたか?」

 わくわくしながらそう聞く高倉天皇に、重衡がことのあらましを説明すると、天皇は、「それは気の毒にな!」と、大ウケ。めちゃめちゃお笑いになります。
 天皇の許可とってるみたいなものだから出来たイタズラですね。

 それからちょっと時間を置いてから、おそらく様子を見るため、天皇は重衡と維盛をお供に付けて、中宮のところへ遊びに行きます。
 高倉天皇の中宮は清盛の娘、徳子。重衡と維盛は親戚なので、結構中の方まで一緒に行けます。その際に、盗賊ごっこの被害者女房たちと顔を合わせることになりますが……。
 女房たちは、重衡と維盛に「今さっき盗賊が入ってきたんですよ!!!」と報告に来ます。それを聞いた重衡と維盛はといえば、笑わないよう、すんごい我慢したそうです。

 慌てふためいてるのがそんな面白いのか? って気もしますが、「作戦が上手くいった! ホンモノの盗賊だと思ってるじゃん、まじウケる」みたいな感覚でしょうかね。
 現代なら間違いなく炎上している事案。若気の至りみたいなものですね。

 しかし重衡と維盛。帰って夜が明けてから、はたと気づくわけです。

持って帰ってきちゃった着物、どうしよう……!

 おそらく肝試しの証拠的なノリで持って帰ってきちゃった女房の着物。中宮のお付の女房たちですから、それなりにお高いものでしょうし、大事なものかもしれません。彼らがそう思い至ったのかは定かでありませんが、とりあえず「返そう!」と、いうことになります。うん、燃やすとかして証拠隠滅しないのはえらいぞ。ここらへんが、かわいいとこですね。

 重衡が考えた女房の着物の返却方法
  →イケメン維盛にお手紙を書かせる。

お手紙の内容
→「さっき通った道にみなさんが言ってた盗人がいたので、取り返しておきました。お返ししますね

 そんな都合のいい。
 ……これ、多分敢えてイケメン維盛に書かせてるんじゃないかなーと。イケメン無罪! 狙いの可能性を提唱します。

 冷静に考えると維盛って貧乏くじなんですよね。
 ・警備員を呼び止めて気を引いてた
 ・突入班の隆房は維盛の直衣を着ていた
 ・「盗賊から取り返しましたよ〜」ってお手紙を書いて着物を送る

 実際は女子の部屋に入ってない(美味しい思いしてない)のに、この人状況証拠で犯人ってバレますよね??

 警備員と話してたからある意味アリバイはあるけど、共犯の言い逃れは出来ない………。あと「盗賊倒したぜ!」みたいなそんな都合のいい理由……。

 維盛は先に書いたように、押しに弱いというか、気が弱い性格なので、なんかこう、頼られる感じで世渡り上手の重衡に押し付けられたのでは? と勘ぐってしまいます。さすがにイジメじゃないと思いたい!

 この手紙を送ってから……はい、当然バレます。維盛の手紙に返事を出したのは、重衡の奥さん、輔子さん。

返事「お命が助かって良かったですね。それにしても、どうして夜は誰も盗賊に会わなかったのかしら

 と、激おこだよってお手紙が届きます。

 後日、なんと、高倉天皇が普通に裏切り、ネタばらし。女房たちは重衡をとっても恨んだそうです。やはり発案者だからかな?
 でも、恨まれると言ってもガチなやつじゃなく、「もう〜! 重衡様ったら、イタズラの域を超えてます! ドン引きですから!」みたいな、ギリ白い目で見られるレベルかと思われます。やはりイケメンは正義。
 そして一人だけ恨まれることにならなくて良かったね維盛!!

と、ちょっと長くなりましたが、今回のお話は以上になります。

 さっきも書きましたが、現代なら確実に炎上してる事案ですね。当時も女房ネットワークではプチ炎上くらいにはなったんでしょうか。天皇が関わってるので、公に非難はされないでしょうが。

 でも、平安時代から男子学生のノリっていうのはあるんだなあと実感させてくれるユニークなエピソードだと思います。このエピソードを書き残したのがもし、隆房なら、本当にこの頃が楽しかったんでしょうね。

 隆房は源平の乱の後も宮中に残りますが、知盛は壇ノ浦の戦いで入水自殺。重衡は東大寺と興福寺を焼失させた罪で処刑。維盛は熊野で入水自殺。と、平家の公達は漏れなく非業の死を遂げます。
 彼らは朝敵扱いだったので擁護するのは危険なことでした。それでも、友人として、一人の人間としての彼らの姿を後世に残したかったのかなと想像します。

 いかがでしたか。平家の若者達の親しみやすさを感じて頂ければなーと思います。今回ちらっと描いただけですけど、学パロ楽しいのでまた描きたいですね。

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