【3話】 NOT FOR SALE


テッテレー。
 
場違いな効果音が、頭の中で盛大に鳴り響く。
 
……テッテレー?
 
いや、仮にこれが悪趣味なドッキリだったとしても。
 
今までの甘いひとときは、事実として俺の胸の中に残り続ける。
 
それって、厳密にはドッキリとは言えないんじゃないか?
 
だってもう抱いちゃってんだから。
 
ていうか、喜一、いつ結婚してたんだ?
 
久弥
「どういうことですか」
 
ひとまず、渦巻く疑問をこの一言に全て集約した。
 
玲子
「喜一から、変なこと頼まれませんでしたか」
 
心当たりがありすぎた。
 
久弥
「新しい感情を売ってくれ、と言われました」
 
玲子
「やっぱり」
 
玲子
「彼、日頃から久弥さんのことばかり話してたから、もしかしてと思って」
 
久弥
「話していた、というのは」
 
玲子
「アイツも頑張ってるから俺も頑張らなきゃ、みたいな」
 
喜一がそこまで俺を意識していたとは、予想外だった。
 
玲子
「小説家って、あまり同業の仲間ができないみたいで」
 
玲子
「切磋琢磨できるライバルが欲しいって、いつも言っていました」
 
玲子
「きっと彼の中で、久弥さんはそういう存在だったんじゃないかと」
 
まるで故人を偲ぶような口ぶりで、玲子は言った。
 
あるいは、生きながら変わり果ててしまったのか。
 
久弥
「それで、どうして僕に」
 
抱かせてくれたんですか、とは聞けなかった。
 
玲子
「私も、同じことを頼まれたんです」
 
玲子
「俺に新しい感情をくれ、人生をめちゃくちゃにしてもいいから、と」
 
玲子
「最初は悩みました」
 
玲子
「小説家である前に、一人の男性として彼を愛してますから」
 
玲子
「彼の人生を壊すなんてできないって思ったんです」
 
玲子
「でも、何もしないこともまた、彼の人生を壊してしまうような気がして」
 
玲子
「何かしなきゃと思って」
 
玲子
「妻を親友に奪われたら、彼の中で、何かが動いてくれるかなって」
 
俺に仕組まれた罠は、想像以上に複雑な構造をしていた。
 
玲子
「でも私、彼に嘘はつきたくなかったんです」
 
玲子
「もし奪われるとしたら、本当に奪われなきゃいけないと思って」
 
玲子
「あなたを騙しました、ごめんなさい」
 
玲子は泣いていた。
 
『今の自分を認めてくれる人、その存在を大切にしよう』
 
俺が自分に唱えていた呪文は、正しかった。
 
表現者のエゴとは、こんなにも周りの人間を不幸にするのだ。
 
久弥
「おかしいですよ」
 
久弥
「どうして玲子さんが、こんな思いをしなければならないんですか」
 
玲子
「最終的には、私が決めたことです」
 
玲子
「彼を責めないであげてください」
 
玲子はスマホを見た。
 
玲子
「もうじき、彼がここへ来ます」
 
久弥
「ここに?」
 
玲子
「この姿を見ないと、きっと彼の心は動かないから」
 
玲子
「久弥さん、どうか最後まで協力してください」
 
久弥
「でも――」
 
そう言いかけた時、部屋のドアが開いた。
 
無表情の喜一が、当たり前のように入ってきて、俺たちを見た。
 
つとめて心を空っぽにしているようだった。
 
玲子
「キイちゃん、ごめん」
 
玲子
「私、久弥さんと寝ちゃった」
 
喜一は目の焦点を合わせず、ぼんやりと一点を見つめている。
 
必死に心をかき混ぜているようだ。
 
玲子が前を向いたまま、肘でツンツンと俺を促した。
 
ためらいながらも、口を開く。
 
久弥
「お前にはもったいないよ、こんな美人な奥さん」
 
久弥
「だから俺が貰った」
 
喜一の目が、俺に向けられる。
 
久弥
「お前は、玲子さんを幸せになんてできない」
 
もはや、芝居でもなんでもなかった。
 
それが通じたのか、喜一の顔が徐々に赤らんできた。
 
やがてそれだけに留まらず、部屋の中をウロウロと歩き始めた。
 
感情の行き場を失っているのか。
 
あるいは、感情の芽生えに興奮しているのか。
 
しばらくすると喜一は、胸ポケットから封筒を取り出し、
 
ベッドの上に思いきり叩きつけた。
 
そして、荒い鼻息を必死で抑えながら微笑んで、
 
喜一
「ありがとう、久弥」
 
喜一
「また頼むよ」
 
そう言い残し、部屋を後にした。
 
妻を親友に寝取られたことを感謝し、金を払って去る。
 
誰が血を流したわけでもないのに、見るも無惨な光景だった。
 
封筒の中には、当てつけのように真新しい一万円札が10枚、収められていた。
 
いそいそと受け取れるはずがない。
 
玲子
「受け取ってください」
 
俺の心情を察したのか、玲子が先にそう言ってきた。
 
玲子
「ありがとうございました、これからも――」
 
気がつくと俺は、玲子の両肩を掴んでいた。
 
久弥
「玲子さん」
 
久弥
「これからのことは、僕に任せてもらえませんか」
 
×                      ×                      ×
 
家に帰ると、すぐさま卒業アルバムを引っ張り出した。
 
ページ一面に並んだ、屈託のない笑顔の数々。
 
その中に、俺と喜一もいる。
 
おそらく、この“取引”に終わりはない。
 
芽生えた感情を使い果たして、俺に新たなそれを依頼して、使い果たして。
 
その繰り返しだ。
 
アイツの中にある決定的な何かを動かさない限り、また誰かが不幸になる。
 
あるいは俺が。
 
あるいは、喜一自身が。
 
そうなる前に、俺がアイツを変えなければ。
 
そのヒントを、アルバムの中に探していた。
 
10年以上掘り起こすことのなかった、高校時代の記憶を必死に手繰り寄せる。
 
俺と喜一は、同じ野球部だった。
 
帰る方向が同じで、自ずといろんな話をした。
 
ウザい先輩のこと、気になっている女子のこと、行きたい大学のこと。
 
そんな中で、喜一がポロッと「小説を書いている」と話してくれたのを思い出した。
 
正確には“口を滑らせた”というニュアンスかもしれない。
 
図々しさに定評のあった俺は、見せてくれと何度も何度も言い寄った。
 
それでも、喜一は一度も見せようとはしなかった。
 
それから程なくして、喜一は野球部を辞めた。
 
たまに学校で見かける喜一は、教室の隅の席でひたすら何かを書いていた。
 
おそらく小説だった。
 
だが、半径2メートル以内に誰かが近寄ろうものなら、すぐにノートを閉じ、気を逸らしていた。
 
完成するまでは、誰かに見られたくないんだろうな。
 
この時点で芸人になることを意識していた俺は、喜一の気持ちがなんとなく分かる気がした。
 
それ以上の記憶は、あまりない。
 
おそらくそれほど会話もせずに卒業を迎え、今に至る。
 
喜一が野球部を辞めた理由。
 
小説に専念するため、と考えることもできるが、
 
それだけではない気がした。
 
しかし、これ以上は俺一人の力で推察することができない。
 
ならば、こうするしかないか。
 
『野球部78期』と名付けられたグループラインに、重たい指で文章を綴った。
 
『今度、久々に集まりませんか』
 
×                      ×                      ×
 
誰かが言い出すのを心待ちにしていたのか、
 
平日の夜にも関わらず、ほぼ全員が“同窓会”に顔を出した。
 
ある奴は、産まれたばかりの娘の写真を見せて回り、
 
ある奴は、わざわざ大企業の社員証をぶら下げたまま席に座っている。
 
その渦の中心で、虎視眈々とタイミングを窺う俺。
 
喜一の価値観を揺るがすヒントを、なんとしてでも持ち帰ってやる。
 
しかし、俺に有利な試合展開など期待できるはずもなく――。
 
部員1
「久弥、芸人やめたんだって?」
 
部員2
「もったいないなあ、芸人が売れるのは30過ぎてからだろ?」
 
部員3
「お前には、そこそこ期待してたんだけどなあ」
 
安定した職に就くと、他人の人生に口出しする余裕すら手に入るらしい。
 
羨ましい限りだ。
 
俺は口出しどころか、人生ごと変えてやらなきゃいけないというのに。
 
それでも、持ち前のサービス精神でひとつひとつ丁寧に捌いていく。
 
笑いが起こる。
 
芸人時代を思い出す。
 
先輩に連れてこられた飲み会で、ちょうどいいピエロを演じながら、
 
虎視眈々と反撃のチャンスを窺っていた。
 
いつか絶対、コイツらよりも売れてやる。
 
そんな反骨精神も、とっくのとうに消え失せてしまった。
 
そのことが、少しだけ寂しかった。
 
もうあんなふうに、何かを下から睨み上げることなんてないんだろうな。
 
いつかはコイツらと同じように、つまらないものを何の疑いもなく享受して、
 
バカみたいに笑ったりするんだろうな。
 
それはそれで幸せか。
 
ふと見ると、ある奴が人気芸人のトークをさも自分のエピソードのように話し、笑いを取っていた。
 
ぶち殺したくなった。
 
だが、今の俺にコイツをぶち殺す権利などない。
 
それがあるのは、命を削って何かを生み出そうとしている者だけだ。
 
俺は喜一の顔を強く思い出しながら、口を開いた。
 
久弥
「なあ、喜一って覚えてるか」
 
盛り上がっていた空間が、水を打ったように静まり返る。
 
全員が「覚えてない」というような顔で、お互い目を見合わせている。
 
そんな中、一人の部員が声を上げた。
 
部員4
「ああ、天才くんだろ?」
 
部員4
「癇癪(かんしゃく)持ちの天才、草壁喜一くん」
 
天才くん。
 
そのワードに記憶を刺激されたのか、全員が薄気味悪い笑みを浮かべ始めた。
 
それは、人が人を見下している時の笑顔だった。
 


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