【5話】 NOT FOR SALE


高校の頃から、何も変わっていない。
 
変わったといえば、書くのがノートからパソコンになったことぐらい。
 
パソコンの方が、言葉が浮かんでから出力までのラグが少なくていい。
 
言葉の鮮度が落ちない気がする。
 
ペンの速さだと、文字に起こしているうちに嘘になってしまう。
 
それでは意味がない。
 
僕は、小説に嘘は書きたくない。
 
矛盾しているようにも聞こえるが、嘘を嘘のまま書いた話など、誰も感動しない。
 
優れた芸術とは、必ずそこに作者の本心が潜んでいる。
 
それが垣間見えた瞬間、人は感動するのだ。
 
僕の小説には、嘘がない。
 
誰にも見せていないので、感動させたことはないのだけれど。
 
×                      ×                      ×
 
大学生のうちから、小説家になることは決めていた。
 
就職もせず、アルバイトをしながら、空いた時間は全て小説に充てていた。
 
自分の感情を基にして書いているので、余計なインプットに時間を割かれることはなかった。
 
書くこと。ただそれだけに専念した。
 
しかし。
 
何度書いても、最後まで辿り着くことができない。
 
ある瞬間から、途端に話が嘘臭くなる。
 
陳腐になる。
 
自分の書いたもので、自分を感動させられない。
 
それでは何の意味もない。
 
これを完成させたところで、誰の心も動かせるはずがない。
 
またこの世にひとつ、ゴミを増やしてしまった。
 
資源を無駄にしてしまう前に、フォルダの奥底にしまい込む。
 
気づけば、デスクトップは未完成の小説たちで埋め尽くされていた。
 
仕事にしなければならない。
 
それも分かっている。
 
この世界には“文章を書くお仕事”というのがいくつもあって、
 
それはおよそ、感情を必要としないものばかりだ。
 
だが、金のためにそんなものを書いて、時間に追われ、
 
そのうちに大切な感情たちを腐らせてしまったら、取り返しがつかない。
 
僕には、僕にしか書けないものがある。
 
誰でも書けるような文字群に、時間を割いている暇はないのだ。
 
バターをナイフで削ぎ落とすように少しずつ感情を削り出し、紙の上に塗っていく。
 
厄介なことに、一度使ってしまった感情は、もう二度と使うことはできない。
 
鮮度を失っているからだ。
 
新しいものを書くためには、新しい感情が必要になる。
 
そうしているうちに、感情はもう底をつきそうなところまで来ていた。
 
昔は、あれほど大きな塊だったのに。
 
あの頃は書きたい感情がありすぎて、尽きることなど想像もしていなかった。
 
歳のせいか?
 
いや、違う。
 
あの頃は、感情が安定的に供給される環境にいたんだ。
 
学校には、隠れる場所がない。
 
だから、理想を下回って苦悶している自分も、容赦なく人目に晒される。
 
それを見て、周りの人間が陰でクスクスと笑っている。
 
特に、棚橋久弥。
 
アイツは人をコケにして笑いを取るのが、抜群に上手かった。
 
久弥が僕を笑いに変えるたびに、僕には感情が付与された。
 
腹立たしい。
 
殺してやりたい。
 
その感情が、僕を小説へと向かわせた。
 
あの頃、僕が“書くこと”に出会っていなければ、
 
今頃どこかの繁華街で無差別に人を刺し殺して、死刑になっていた。
 
それほどの屈辱だった。
 
心の拠り所が見つかったのは幸いだったが、
 
そもそもあの日々がなければ、それすら必要とせず、もっと幸せな人生を送っていたかもしれない。
 
共に生活する妻を、執筆の邪魔だと疎ましく思うこともなく、
 
ちゃんと愛し合って、子供が産まれて、良い家庭を築いていたかもしれない。
 
つまり、アイツが僕を生み出したんだ。
 
ありがとう。でも、死ね。
 
どうやら久弥も、就職せずに芸人をやっているらしい。
 
良きライバルだ。
 
僕が必ず、アイツを蹴落とす。
 
真の芸術が姑息な承認欲求を上回るということを、僕が証明してやるんだ。
 
×                      ×                      ×
 
ある日、久弥がSNSの更新をパッタリと止めた。
 
先に成功されては困るから、彼の動向はSNSで常に監視していた。
 
心配するまでもなく、売れなかったのだが。
 
おそらく、廃業したのだろう。
 
しかし不思議なことに、そんな彼の惨めな姿を知っても、僕に感情は付与されなかった。
 
正確には、小説に使えるような感情は、だ。
 
久弥を見て僕が感じていたのは、安心感。
 
コイツはまだ僕と一緒だという、心の余裕。
 
そんなヌルい感情からは、何も生まれない。
 
しかも、僕をこの道に引きずり込んでおいて、自分はさっさとドロップアウトするなんて、
 
一体どういう了見なんだろうか。
 
アイツだけが幸せになるなんて、僕が許さない。
 
なんとしてでも、僕のところまで引きずり戻したい。
 
次第に感情が芽生えてきた。
 
――そうか。
 
コイツにまた、新しい感情を貰えばいいのか。
 
久弥には、僕に感情を供給し続ける義務がある。
 
玲子にも協力してもらおう。
 
これから僕が生み出すであろう、最高の芸術。
 
その一翼を担えるんだ。
 
諸手を挙げて喜んでくれるに決まっている。
 
×                      ×                      ×
 
久弥が僕に与えた感情は、思った以上の効き目を発揮した。
 
目の前で、妻が親友に寝取られている。
 
愛する女を奪われた、その屈辱。
 
それは、かつてないほどの引力で、僕を創作の沼へと引きずり込んだ。
 
ありがとう。でも、死ね。
 
矛盾した二つの感情がそのまま主人公の葛藤となって、文章の中を躍動している。
 
文字を重ねるたびに、鼓動が早まるのを感じた。
 
新たに綴られる言葉ひとつひとつに、感動していた。
 
もう少しだ。
 
もう少しで、僕の処女作は完成する。
 
その最高の瞬間を、もう少しとっておきたくなって、
 
その日は無理やり布団に入った。
 
このまま完成させるのは勿体無い。
 
もう少し、この高揚感の中に埋もれていたい――。
 
まるで、サンタが来るのを待つ子供のような気持ち。
 
あるいは、性行為の最中にいるような気持ち。
 
欲しいのはプレゼントではなく、絶頂へ辿り着くまでの快感である。
 
そして明日の朝、枕元に置かれている感情が、
 
僕を更なる感動へと導いてくれるはずだ。
 
×                      ×                      ×
 
枕元に置かれていたのは、
 
芸術にすらなり得ないほどの、大きな絶望だった。
 
無い。
 
完成間近だったはずの小説が、デスクトップから忽然と姿を消した。
 
誰かの仕業か。
 
それとも、液晶に並んだ“未完の感情”たちが、怨念となって僕に復讐しているのか。
 
玲子は既に仕事へ出ている。
 
もしこれが彼女の仕業なら、僕は確実に彼女を殺してしまう。
 
ここまでの感情は望んでいない。
 
――その時。
 
思考をバッサリと打ち消すように、スマホが鳴った。
 
久弥からだった。
 
久弥
「今夜、どうしても会わせたい奴がいる」
 
久弥
「必ず来てくれ」
 
僕に返答の隙を与えず、久弥は電話を切った。
 
×                      ×                      ×
 
俺は玲子から小説のデータを受け取ると、
 
手付かずの封筒をそのまま渡した。
 
久弥
「これで、受け取ってくれますよね」
 
久弥
「全ては僕が招いたことですから」
 
久弥
「僕が決着をつけます」
 
玲子はしばらくためらっていたが、
 
玲子
「分かりました」
 
そう言って、封筒を受け取った。
 
玲子
「ひとつだけ聞きたいんですけど」
 
玲子
「これで、彼は幸せになるんですよね?」
 
玲子の目は潤んでいた。
 
美しい女性は、不安を纏うとより美しくなるのだと、この時知った。
 
×                      ×                      ×
 
目が眩むほど高いビルの、目が眩むほど広いロビーで、
 
俺はある男と待ち合わせていた。
 
これ見よがしに社員証をぶら下げた中肉中背のそいつは、
 
俺を見るなり嫌な笑顔を浮かべた。
 
「もっと、ちゃんとした格好で来いよ」
 
砂川伸二は、俺のシャツに空いた穴へ強引に指を突っ込んできた。
 
同窓会の時から感じていた、この図々しさ。
 
自信過剰な態度。
 
人を値踏みするような目。
 
どれを取っても、この大仕事に適任だった。
 
適当にじゃれ合ってから、さっさと本題に入る。
 
久弥
「実は、喜一が書いた小説を読んでもらいたくて」
 
紙の束を渡すと、砂川は読んでもいないのに眉をひそめた。
 
砂川
「アイツ、まだそんなことやってんのかよ」
 
久弥
「率直な感想を伝えてほしいんだ」
 
久弥
「できれば直接」
 
久弥
「今夜、アイツを呼び出す算段になってるから、頼むよ」
 
砂川
「おいおい、俺はお前みたいに暇じゃないんだぞ」
 
砂川
「しかも今夜なんて、間に合うわけないだろ」
 
久弥
「時間がないんだ」
 
久弥
「今度、グラドルと合コン取り付けるからさ」
 
砂川は分かりやすく口角を緩めた。
 
砂川
「本当だな? 約束だからな?」
 
すまんな砂川。
 
命削ってたせいで、そんな煩悩とは縁がなかったんだ。
 
×                      ×                      ×
 
夜、ファミレスで砂川の自慢話を聞き流していると、
 
喜一は約束の時間に5分遅れてやってきた。
 
砂川
「よう、天才くん」
 
砂川
「俺のこと覚えてるか?」
 
喜一
「野球部の、砂川か」
 
砂川
「お前のこれ、読ませてもらったよ」
 
砂川は、紙の束を乱暴に置いた。
 
喜一の目が、すぐさま俺に向く。
 
喜一
「お前――」
 
久弥
「喜一、俺もいろいろ考えたんだ」
 
久弥
「お前の心を動かす、一番いい方法はなんだろうって」
 
久弥
「やっぱりこれしかないと思う」
 
久弥
「自分の作品を人に読んでもらって、評価を下される」
 
久弥
「これ以上に、心の動くことはないんだよ」
 
そのことを俺は、経験で知っていた。
 
芸人は、自分の作品をリアルタイムで評価される。
 
ウケるかスベるか、だ。
 
スベったら最後、ネタが終わるまでその地獄からは逃れられないし、
 
もったいぶって評価を先延ばしにすることもできない。
 
これほどまでに、心を使わされる経験はない。
 
喜一もそれを味わうべきだと思った。
 
喜一
「それ、完成もしてないんだぞ」
 
喜一
「そんなんで評価が下せるわけないだろう」
 
喜一は激しく狼狽していた。
 
久弥
「それは、読んだ人間が決めることだ」
 
久弥
「砂川」
 
砂川は俺たちのやり取りに終始ポカンとしていたが、
 
自分のターンが来たことを悟ると、ゆっくりと口を開いた。
 
砂川
「はっきり言って、ゴミ以下だったね」


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