【エッセイ】数学が0点だったくせに数字をモチベーションにすること自体間違っている

高校1年生最初の期末テスト、数学Ⅰで0点を取った。

名前を書き忘れたとかじゃなく、大真面目に50分間答案用紙と向き合った結果の、0点。

その後のテストでも赤点の半分以下しか取れず、3月の終業式前日、数学の先生に呼び出された。

「これ、明日までにやって来なかったら留年だから」

渡されたのは、割り算の筆算のドリルだった。

翌日それを提出すると、すでに印刷されていた通信簿の数学の評定「1」を、担任が手書きで「2」に書き換えてくれて、進級できた。

数学が嫌いだ。

嫌いというより、単純に苦手。

教科書が言ってることの主語から述語まで、何ひとつ理解できない。

でも僕が「数学マジキモい」「意味わかんない」と声をあげても、誰も耳を貸してくれない。

僕が数学より売れてないからだ。

僕が数学より売れていたら、もっとみんな僕の意見を聞いてくれるのに。

僕が数学を批判したツイートに10万いいねぐらい付くのに。

そのツイートがワイドナショーに取り上げられて、ゲストで呼ばれて、松ちゃんが両目を擦りながら大笑いしてくれるのに——。


とか言いつつ、僕は数字に翻弄されながら生活している。

先日、小説を発表した。

noteにもカクヨムにも読者数の遷移を見られる機能があって、それをちょこちょこ見ている。

数字が欲しくて書いたわけじゃないのに、数字が伸びていると嬉しい。

いつしかそれがモチベーションになる。

舞台にしてもそう。

動員数が欲しくてやるわけじゃないのに、動員数が多いと嬉しい。

それはもちろん、たくさんの人に見てもらえたという喜びでもあるんだけど、厳密にはそうじゃない。

数字は人を競わせる。

あの舞台より動員が多かったとか、今までで一番台本が売れたとか、相対化するための材料になる。

そして、数字は手っ取り早い。

「俺こんだけ頑張ったんすよ!すごいっしょ!」と声を荒げるより「〇〇人動員しました」と一言言うだけで、人を説得できる。

SNSのフォロワー数とかが最たる例で、そいつがつまんなかろうがしょうもなかろうが、フォロワーが多ければ「おっ」となる。

説得力が付与される。

そいつが凄い人間に見えてくる。

逆に言えば、少ないと説得力は減退する。

数字の少ない自分はウンコなんじゃないか?と思い始める。

実際ウンコだったりする。

それ自体が良いとか悪いとかいう問題じゃない。

付き合い方の問題。

数字をモチベーションにした時点で、情熱は死ぬ。

イチローが記録をモチベーションにしていたら「小さなことの積み重ねが、とんでもない所へ行くただひとつの道」とは言わないだろうし、

キムタクが視聴率をモチベーションにしていたら、『安堂ロイド』をやった時点でドラマは完全に引退していたはず。

数字は後からついてくるぐらいがちょうど良い。


ここまで書いてみて、自分の言ってることが「経済から乖離した人間の妄言」にしか見えなくなってきたが、実際そうなんだから仕方ない。

現状、僕が創作で生み出す数字は限りなく少ない。

数字を気にするのは、もっと数字が増えてからでいい。

お前にはまだ早い。

そう言いながら、今日もフォロワーが1人減ったことを死ぬほど気にしている。

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