【1話】 NOT FOR SALE


腹が減って、目が覚める。
 
およそ俺の人生は、腹が減る以外に目を覚ます理由がない。
 
だから、腹が減ってくれることに感謝しているし、絶望もしている。
 
布団から上体を起こすと、自動的にパソコンに向かえる“仕組み”になっていて、
 
その勢いのまま作業に取りかかる。
 
食べかけのジャムパン。
 
30歳の男が、1つのパンを2日に分けて食べている。
 
美味しいからとっておきたいとかじゃなく、一気に食べ切る元気がない。
 
それを平らげる頃には、あらかた編集は済んでいる。
 
CMを全部カットし、ネットから適当に拾ってきた『世界の絶景』みたいな動画の上に、その素材をトレースする。
 
AIに見つからないようにするためだ。
 
苦肉の策ではあるが、このワイプのように小さくなった動画を、多くの人間が待ち望んでいる。
 
サムネイルとして、目隠しを付けられて困惑しているクロちゃんをキャプチャする。
 
ここは普通に、視聴者として笑った場面。
 
放送終了から2時間。
 
俺より早い奴もいるだろうが、ルールを知らずにそのままアップロードし、秒で削除されるのが関の山だ。
 
法を脱するにもルールがある。
 
無闇やたらとハミ出すだけで、逃げ切れるわけがないのだ。
 
それから、動画は必ずプレミア公開で。
 
視聴者は、バラエティを観ながらやいのやいの発言できる場所に飢えている。
 
それを提供してやるのも、サービスのうち。
 
公開するや否や、待ってましたと言わんばかりにコメントし始める視聴者たち。
 
コイツらも同罪。
 
違法と知りながら、俺の撒いた餌に群がってくる。
 
もちろん、チャンネル登録者に対する配慮も忘れない。
 
コミュニティ機能で、いつも観てくれている“共犯者”たちに挨拶する。
 
『最近、投稿遅れてしまいすみません! もうじきバタバタしてたのが落ち着くので、過去回もアップできそうです。リクエストお待ちしております♪』
 
すると、数秒と経たないうちにレスポンスが返ってくる。
 
『いつもありがとうございます! これからも楽しみにしてます(^^)』
 
『お忙しかったんですね(>_<) 無理せず更新してください! 待ってます♪』
 
『できれば2016年ごろの〇〇見たいです! お願いします!』
 
――ああ。
 
俺はこの言葉を貰うために、どれだけの遠回りをしてきたんだろうか。
 
×                      ×                      ×
 
舞台の上。
 
フリップがめくるめく速さでめくられていく。
 
めくっているのは他でもない、俺。
 
尖った芸風のくせに『棚橋久弥』という本名で活動していた俺は、
 
この日も大勢の客を相手にしていた。
 
5分の間に聞こえてきたのは、空を切るような俺のツッコミと、フリップのめくれる渇いた音だけ。
 
逃げるように舞台を後にする。
 
文化祭実行委員会が、ゴミを見るような目で俺を見ていた。
 
その後、激しい出囃子と共に舞台へ飛び出した男の子2人は、
 
その掛け合いが掻き消されるほどの爆笑を起こしていた。
 
この大学の学生らしい。
 
「アイツ、今どんな顔してんだろ?」と答え合わせされてしまう前に、俺は大学を出た。
 
学生に完敗したプロの顔は、彼らからしたら恰好の見世物だろう。
 
それこそ、俺が披露したフリップ芸なんかより何倍も。
 
――笑わせられないのなら、せめて笑われるべきではないのか?
 
いや、そんなの俺が目指した芸人像じゃない。
 
そんな思考をグルグルさせながら、やっとの思いで電車に乗り込む。
 
TikTokを開く。
 
今日も俺のネタ動画は回っていない。
 
「面白い」はおろか、「つまらない」とすら言われない。
 
ため息にならないよう鼻から深く息を吐いて、YouTubeで昨日見逃したバラエティを見る。
 
すぐさま視聴者へと成り下がる。
 
するとまあ、なんと面白い。
 
“享受する側”とはこんなにも楽で、こんなにも心が豊かなものなのか。
 
途中、あまりにも吹き出してしまった場面があったので、
 
思わず動画のスクショを録り、自分のTikTokに載せた。
 
それから少しうたた寝をして、最寄り駅でしっかり目が覚める。
 
なんの気なしにスマホを覗く。
 
――とんでもない数の通知が、液晶を埋め尽くしていた。
 
何事かと確認すると、さっき載せた切り抜きに対する反応の数々。
 
『ここもっかい見たいと思ってた!』
 
『ここを切り抜くのはマジでセンスある』
 
センス――。
 
喉から手が出るほど欲しかった、その言葉。
 
朝から晩まで脳を回し、山になるほどのフリップを書き殴っても手に入らなかった、その言葉。
 
それが、いとも簡単に俺の手元へと届けられた。
 
それからすぐ、最寄り駅のゴミ箱に手持ちのフリップを全部捨てた。
 
単独ライブを開こうと貯めていた金を全て下ろし、電気屋でパソコンを買った。
 
よく分からない編集ソフトをダウンロードして、使い方を徹底的に調べ上げた。
 
俺にはセンスがある。
 
その発露の仕方を、少し間違っていただけだ。
 
あっという間にチャンネル登録者数は4000人を超えた。
 
TikTokに切り抜きを載せ、そこからYouTubeへ流入を促すというシステムすら構築した。
 
それからというもの。
 
俺の心は凪そのものだった。
 
風が強いというだけでイライラしていた日々が、嘘のように。
 
コンビニのバイトで遭遇したクレーマーを脳内で800回殺していたのが、嘘のように。
 
俺には、俺のセンスを必要とする人間がいる。
 
それだけで、何もかも許せるようになった。
 
×                      ×                      ×
 
今日も、他の違法アップローダーたちをパトロールしに行く。
 
同じバラエティ番組を載せているのに、俺の再生回数は10万、コイツは600。
 
明らかに工夫が足りていない。
 
無機質にただ動画を載せるためのbotに成り下がったんじゃ、視聴者は愛してくれない。
 
長らくのご愛顧を頂戴するには、あくまでこちらも人間であることをアピールすべきだ。
 
自分のファンになってもらわないことには、この稼業は続けられない。
 
まだまだ甘いな。
 
そろそろこういう奴らを集めて、有料のオンラインサロンでも始めてみるか。
 
――みたいなことを考えていると、スマホが鳴った。
 
知らない番号からだった。
 
久弥
「もしもし」
 
「おう、俺だよ俺、クサカベ!」
 
久弥
「キイチ?」
 
喜一
「よかった、もう番号変わっちゃってるかと思ってたよ!」
 
電話の向こうの旧友は、やけに興奮していた。
 
喜一
「飲みにでも行きたいなーと思ってさ。近況報告っていうか」
 
近況報告。
 
喜一がそう言うのには理由がある。
 
俺と彼だけが、高校の同級生たちの中で唯一、まともに就職をしなかったからだ。
 
喜一はそんな俺を、戦友のように思ってくれているらしい。
 
思えば30を迎えてから、そういった飲みの誘いは増えたような気がする。
 
全く顔を出してはいないが。
 
出向いたところで、気付くか気付かないかギリギリのラインでマウントを取られ続けるだけなのは、目に見えている。
 
社会に出た奴らはそうやって、社会から外れた俺を見て安心する。
 
やられた側は気付いているというのに。
 
でも、喜一となれば話は別だ。
 
喜一
「ちなみに、今からはどう?」
 
今夜も“仕事”の予定はあるが、俺の心は弾んでいた。
 
久弥
「行こう!」
 
×                      ×                      ×
 
卒業ぶりに会う旧友は、驚くほど何も変わっていなかった。
 
それを伝えると、どうやら俺もそうみたいだった。
 
人間はほとんど、高校の時分までに形成されるのかもしれない。
 
お互いSNSで近況を覗いてはいたが、一応そのへんの話題をさらうところから始める。
 
ひと通り済ませると、喜一は意外にも耳の痛い話題を持ち出してきた。
 
喜一
「芸人辞めたらしいな」
 
久弥
「お前に言ったっけ」
 
喜一
「SNS見てれば分かる。もう活動してないなって」
 
久弥
「まあ、そうなんだよね」
 
喜一
「今は何してんの? 裏方とか?」
 
昼はコンビニの店員、夜は世間を欺く違法アップローダーさ。
 
なんて言えるはずもなく。
 
久弥
「完全にそっちからは足洗ったよ」
 
喜一
「そっか」
 
喜一
「別に責めるとか、そんなつもりはないんだけどね」
 
久弥
「喜一はまだ、小説?」
 
喜一
「書いてる。でもまあ、書いてるだけって感じかな」
 
知ってる、と言いそうになって、やめた。
 
“売れる”とは恐らく、そいつと全然関係のないところから、そいつの名前を聞くことだ。
 
そういった意味で、喜一の名前を聞かない。
 
つまりそういうこと。
 
ただ俺とは違い、喜一はまだ心に闘志を宿しているようだった。
 
久弥
「出版社に売り込んだりとかはしないのか?」
 
久弥
「俺も詳しくないからアレだけど」
 
途端に、喜一は苦そうな顔をした。
 
何やら図星を突いてしまったんだろうか。
 
喜一
「そういう道もあるにはあるけど、なんか違くて」
 
喜一
「自分の納得するようにやりたいんだよね」
 
そんな喜一を、咎(とが)めるつもりは全くない。
 
俺自身もそうだったからだ。
 
自虐に走るのは己のコメディアンシップに反するからと、頑なに笑われるようなことはしてこなかった。
 
好きなように、才能を突き詰める。
 
それは全ての表現者に与えられた、平等な権利だ。
 
とはいえ。
 
喜一よ、ちょいと夢を見過ぎてはいないか。
 
喜一
「30になると途端に何も感じなくなるっていうけど」
 
喜一
「本当にその通りだったよ」
 
喜一
「最近、何を観ても何も感じない」
 
喜一
「心が動いてくれないんだ」
 
喜一
「心が動かないことには、良いものは書けない」
 
喜一
「どう売れるかよりも、今はそっちの方が死活問題かな」
 
言い訳にしては長いな、と思った。
 
つまり本心なんだろう。
 
そして、この本心が俺と同い歳の人間から出てくることに、若干の恐怖を憶えた。
 
あまりにもヌルい。
 
この歳になって、まだセンスとセールスを切り離して考えている。
 
心が動いてなかろうが、良いものを書いて提供する。
 
それが“仕事”というものではないのか?
 
俺に説教できるだけの根拠など一つもないのだが、
 
ここは古い友人として、進言すべきだと強く思った。
 
枝豆をぐにゅっと握り潰し、覚悟を決めた時。
 
喜一は言った。
 
喜一
「久弥、頼みがある」
 
喜一
「俺に“新しい感情”を売ってくれないか」
 
喜一
「ひとつ10万で」
 
その瞬間、つまみ損ねた枝豆が勢いよく莢(さや)から飛び出して、
 
綺麗な放物線を描いたのち、地面に堕ちた。


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