【4話】 NOT FOR SALE


記憶を刺激されたのは、俺も同じだった。
 
確かにみんな、喜一のことは『天才くん』と呼んでいた。
 
いわゆる、アダ名だ。
 
しかし問題なのは、誰も喜一の前でそのアダ名を口にしていなかったことだ。
 
部員5
「懐かしいなあ、天才くん」
 
部員6
「なんでそんなアダ名が付いたんだっけ?」
 
部員7
「いつも教室の隅で、なんか書いてたからじゃない?」
 
部員8
「小説だろ? まだ書いてんのかな」
 
部員9
「流石にもう書いてないだろ、この歳で」
 
部員10
「いや、由来はたぶんそれじゃない」
 
部員10
「アイツ、テスト返却のとき急に暴れ出してさ」
 
部員10
「そのまま教室出てっちゃったんだよ」
 
部員1
「そうだ! 思い出した!」
 
部員1
「クラスでトップの点数だったのに、自分が納得いかなくて癇癪起こしちゃったんだよな」
 
部員10
「それで付いたアダ名が、天才くん!」
 
そこまで喋って、部員たちは一斉に笑い出した。
 
俺は違うクラスだったので目撃こそしていないが、確かにそんな噂を耳にした気がする。
 
野球部を辞めたのも、おそらくそのあたりだ。
 
言いたいことは山ほどあったが、ひとまずコイツらの話に耳を傾ける。
 
部員2
「アイツ、野球部でも監督に刃向かってたよな」
 
部員3
「そうそう、アイツがエラーしたから怒られたのに」
 
部員3
「それが理不尽だとか言って、親が学校に乗り込んできたんだよ」
 
部員4
「要するに、そういう子だったんだろ」
 
部員4
「ちょっとアンタッチャブルな感じの」
 
喜一は一瞬にして、同窓会の餌となってしまった。
 
違う。
 
本当はもっと良い奴なんだ。
 
ただ、少しだけ自分を高く見積もっていて、そこに到達できない自分が許せないだけなんだ。
 
だが、今さら俺がそんな弁を振るったところで、
 
喜一に対する評価は何も変わらない。
 
――あの頃、喜一はどんな小説を書いていたんだろう。
 
彼にとって小説とは、他でもない“捌け口”だったんだ。
 
周りと折り合いのつかない自分を、その捩(ねじ)れを吐き出すことで、心の是正をしていたんだ。
 
どうりで、未だに感情を重んじているわけだ。
 
それが、いつしか書くことは“義務”へとすり替わってしまって、彼は感情という根拠を失った。
 
だからこそ、新しい感情を探している。
 
自分を小説へと突き動かす、新たな感情を。
 
――ふと我に返ったタイミングで、一人の声が耳に入ってきた。
 
部員5
「確か、天才くんって命名したの、久弥だったよな」
 
俺が?
 
嘘だ。
 
そんなはずはない。
 
そんなの信じない。
 
信じるわけにはいかない。
 
部員5
「感動したんだよ、お前のワードセンス」
 
部員5
「コイツは売れるなって予感がしたね」
 
再び、爆笑が巻き起こった。
 
喜一を教室の隅へと追いやっていたのは、
 
他ならぬ俺だったのだ。
 
×                      ×                      ×
 
幹事のくせに飲み会を早退し、俺は駅のトイレに閉じこもっていた。
 
あの頃から、俺は何ひとつ変わっていない。
 
喜一をコケにして、笑いの餌を撒き、承認欲求のマージンを掠め取っていた、あの頃の俺。
 
そんな人間が、一丁前に芸人なんて目指して、人様から笑いを頂戴しようとしていた。
 
そんな人間を、喜一はライバルだと思ってくれていた。
 
俺は嘔吐した。
 
酒に酔ったからではなく、自己嫌悪のためだ。
 
喜一を作り出したのは、他でもない俺だった。
 
気がつくと、俺は電話をかけていた。
 
言葉を探す前に、体がそうしていた。
 
喜一
「もしもし」
 
電話越しの喜一の声は、ひどく穏やかだった。
 
喜一
「この前はありがとう」
 
喜一
「おかげで、少し筆が進んだよ」
 
久弥
「喜一、すまない」
 
久弥
「俺、お前にアダ名を付けて、陰で面白がってた」
 
久弥
「答案用紙を破り捨てたお前を、天才くんって呼んで、みんなで笑ってた」
 
久弥
「そのせいで、きっと喜一は肩身の狭い思いをしただろ」
 
久弥
「本当に、すまなかった」
 
姿は見えていないのに、俺は個室トイレの中で跪くように謝った。
 
そして、姿は見えていないのに、喜一の顔は容易に想像できた。
 
きっとまた、心を必死にかき混ぜている。
 
新しい感情の到来を待っている。
 
そうじゃない。
 
俺はお前に、心から謝りたいんだ。
 
喜一
「知ってたよ」
 
喜一
「知ってたし、その感情はもう使った」
 
喜一
「だから、別のがいいな」
 
まるで買い物でもするような口調で、喜一は言った。
 
久弥
「知ってて、俺にあんな依頼を?」
 
喜一
「久弥」
 
喜一
「俺は、お前に感謝してるんだよ」
 
喜一
「確かにあの時、みんなが俺を蔑んでいるのは感じてた」
 
喜一
「天才くんって呼び始めたのが、久弥だってことも知ってた」
 
喜一
「でもそのおかげで、俺は小説に向かうことができたんだ」
 
喜一
「誰かに合わせて生きる道が淘汰されて、」
 
喜一
「俺にはこれしかない、と思うことができた」
 
喜一
「それは久弥のおかげだ」
 
喜一
「本当に感謝してるよ」
 
皮肉だ、と思った。
 
だが内容とは裏腹に、喜一の声はまっすぐ澄んでいた。
 
久弥
「本気で言ってるのか」
 
喜一
「もちろんだよ」
 
その声に、胸を撫で下ろしそうになる。
 
俺が喜一を迫害したという事実は、何ひとつ変わらないのに。
 
喜一
「だけどな、久弥」
 
喜一
「お前には同時に、責任も感じてもらわなきゃいけない」
 
喜一
「俺を小説に引きずり込んだのも、お前だからな」
 
――今までとは別人のように、喜一の声色が変わった。
 
その声に、背筋を凍らせることしかできない。
 
喜一
「だからお前に頼んだんだ」
 
喜一
「新しい感情をくれって」
 
喜一
「俺を生んだのがお前なら、俺を育てるのもまた、お前の義務だ」
 
喜一
「違うか?」
 
それは、残酷なまでに正論だった。
 
喜一
「近いうちに、新しいのを頼むよ」
 
喜一は電話を切った。
 
ふと見ると、地面についていた膝から下や掌が、正体の分からない液体で汚れていた。
 
当然の報いだ、と思いながら、俺はもう一度嘔吐した。
 
×                      ×                      ×
 
いつもは呼吸するように唱えている「いらっしゃいませ」という言葉も、
 
口にするのが怖くなっていた。
 
自分の言葉が、誰かに影響を及ぼすのが怖い。
 
自分なんていないかのように、世界が回っていてほしい。
 
実際にはそうだ。
 
俺がいなくても、世界は当然のように回る。
 
それがどうしようもなく悔しくて、かつては命を削っていた。
 
世界中に必要とされるような人間になりたいと、本気で思っていた。
 
だが今は違う。
 
誰にも、何も思われたくない。
 
こんな感覚になるのは初めてだった。
 
心を、裸のまま手に持って歩いているような感覚。
 
表面には内臓のように粘膜で覆われていて、
 
風が吹くだけでも、乾燥してピリピリと痛む。
 
もはや俺に、心なんてものは必要ない。
 
心とは、通わせることを前提に作られたものだ。
 
自分が発した言葉や、行動や、あるいは芸術が、誰かの心に届いて、通じ合う。
 
それを望まないのなら、癌にでもなってさっさと摘出してしまいたい。
 
――しかし。
 
彼女を見つけた瞬間、心が動いたのを感じた。
 
自分の単純さに嫌気が差した。
 
玲子
「すみません、お仕事中ですよね」
 
玲子
「終わったら、お話できませんか」
 
俺は、剥き出しの心をすぐに懐へとしまった。
 
カッコつけたのだ。
 
×                      ×                      ×
 
玲子
「特に、緊急の用事じゃないんです」
 
そう言いながら、玲子は公園のベンチに座った。
 
久弥
「なら、どうして」
 
玲子
「喜一が、久弥さんのところへ行ってきなって」
 
玲子
「それによって、心が動くのを待ってるんじゃないかな」
 
久弥
「玲子さんは、それでいいんですか?」
 
玲子
「私が久弥さんのところへ行って、彼の心が動くってことは」
 
玲子
「彼が私を愛してくれてるってことじゃないですか」
 
玲子
「それに彼、最近すごく優しくなったんです」
 
玲子
「きっと、小説が捗ってるから」
 
玲子
「今までは空気みたいな関係だったんですけど」
 
玲子
「ちゃんと、私に甘えてくれるようになったんです」
 
玲子
「彼が小説を書けて、夫婦関係も良好なら、何も問題ないかなって」
 
事実だけを並べれば、そうかもしれない。
 
でも、何かが違う。
 
何かが歪んでいる。
 
久弥
「でもこのままじゃ、一生このままですよ」
 
久弥
「アイツが新しい感情を欲しがって、そのたびに玲子さんは、自分を殺して何かをしなきゃいけなくなる」
 
久弥
「それは、やっぱり間違ってます」
 
久弥
「もっと、アイツの心が剥き出しになるようなことをすれば、何か変わるかもしれません」
 
何を偉そうに。
 
だが、俺にはそうするだけの責任がある。
 
久弥
「玲子さんは、喜一の小説を読んだことがありますか」
 
玲子
「いえ、一度も」
 
玲子
「完成するまでは、見せたがらないんです」
 
やはり。
 
俺の予想は当たった。
 
喜一は自分の書いたものを、誰にも見せていない。
 
おそらく、ほとんど完成すらさせたことがない。
 
喜一にとって小説とは、心そのものだから。
 
それを剥き出しにして、人に握りつぶされでもしたら、
 
アイツは本当の意味で崩壊してしまう。
 
でも。
 
それをしなければ、それ以上のものはいつまで経っても手に入らない。
 
久弥
「ひとつ、お願いがあります」
 
久弥
「アイツから、小説を盗んできてくれませんか」


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