【2話】 NOT FOR SALE


久弥
「感情を売る?」
 
疑ったのは、耳だけではなかった。
 
コイツはとっくに、フィクションと現実を混同してしまっているのかもしれない。
 
喜一
「早い話が、俺に新しい感情を植え付けるような何かをしてほしいんだ」
 
喜一
「悲しませたり、怒らせたり、絶望させたり」
 
喜一
「なるべくネガティブな感情がいいな」
 
喜一
「ポジティブな気持ちからは、何も生まれないから」
 
久弥
「それをするごとに、お前が俺に10万払うってことか?」
 
喜一
「必要ならもっと出すよ」
 
久弥
「金の問題じゃない」
 
久弥
「具体的に、何をしろっていうんだ?」
 
喜一
「すまないけど、それは久弥に考えてほしい」
 
喜一
「俺が頼んだことをしてもらっても、感情は動かないだろうから」
 
喜一
「その代わり、どれだけ俺の人生をめちゃくちゃにしてくれても構わない」
 
喜一
「とにかく、俺の心を動かしてくれ」
 
心を動かす。
 
およそ人を幸せにする際の言葉を、喜一は裏返して俺に渡してきた。
 
久々に会った友人が、人生をめちゃくちゃにしてくれと懇願している。
 
どうすべきかは明白だった。
 
久弥
「なあ喜一」
 
久弥
「焦る気持ちはよく分かる」
 
久弥
「でもそんなことをして、何が残るんだ」
 
久弥
「そもそもお前は、どうして小説を書いてる?」
 
久弥
「人に認められたいからだろ?」
 
久弥
「お前の周りには、今のお前を認めてくれる人がちゃんといるぞ」
 
久弥
「良いものが書けなくても、お前という存在を尊重してくれる人たちが」
 
久弥
「その人たちを不幸にしてもいいのか?」
 
それはまさに、俺自身が自分に使った呪文だった。
 
今でもたまに、自己嫌悪で眠れない日がある。
 
俺は、ゼロから何かを生み出すという行為から逃げた。
 
虎の威を借り、人に餌を撒き、承認欲求というマージンを掠(かす)め取るだけの姑息な存在へと成り下がった。
 
そんな自分を正当化するための言葉だった。
 
「今の自分を認めてくれる人、その存在を大切にしよう」
 
そう唱えることで、命を削らなくなった自分を納得させようとしていたのだ。
 
喜一
「作品だよ」
 
久弥
「え?」
 
喜一
「何が残るって、作品だよ」
 
喜一の目は、そんな俺の深淵を覗いていた。
 
どんな手を使ってでも、俺はこの世に自分の生きた証を残す。
 
お前と違って。
 
喜一の目はそう語っていた。
 
どうやら、俺が思っている以上に本気みたいだ。
 
喜一
「こんなこと、久弥にしか頼めないんだ」
 
喜一
「お前なら俺の気持ち、分かってくれるだろ?」
 
分からない。
 
もし俺がそう答えたら、喜一はいよいよ自分の人生を破壊してしまうかもしれない。
 
かと言って。
 
俺に、喜一の人生を破壊する義理もない。
 
久弥
「少し考えさせてくれ」
 
地面に転がる枝豆を踏み潰して、俺は店を出た。
 
×                      ×                      ×
 
違法アップローダーの朝は早い。
 
無断でバラエティ番組を転載しているチャンネルが収益化できるはずもなく、
 
ボランティア的に運営している。
 
あくまで目的は、センスの発露だ。
 
当然、YouTubeにアカウントを凍結されることもあるので、
 
遊牧民のように複数のチャンネルを乗り換えながら、日々AIとの隠れんぼを繰り広げている。
 
趣味以上仕事未満、と言ったところか。
 
そのため、俺の生活には労働が伴う。
 
今日も「いらっしゃいませ」と「こちら温めますか」の繰り返し。
 
皮肉なことに、実生活の方がよっぽどbotだ。
 
なるべく“心を動かさない”ようにして、流れ作業のように客と接する。
 
はずだった。
 
いつものように「こちら温めますか」と顔を上げた瞬間、
 
――あまりの美しさに、思わず息を呑んだ。
 
「お願いします」
 
彼女は、およそコンビニ店員に向けるには不相応な優しい笑顔で、そう答えた。
 
弁当をレンジに閉じ込める。
 
背後に彼女の存在を感じ、胸が高鳴る。
 
心が動く。
 
ピーーーーという音で現実に引き戻され、弁当を袋に移し、彼女に渡す。
 
さっき以上の笑顔で受け取り、彼女は去っていく。
 
終わってしまった――。
 
ふと釣り銭のトレーを見ると、彼女はあろうことか小銭を忘れて帰っていた。
 
終わってなかった――。
 
小銭をしっかりと握りしめて、俺は彼女を追いかける。
 
久弥
「あの」
 
「?」
 
振り向きショットをしっかり頂戴し、脳内に焼き付ける。
 
久弥
「お釣り」
 
「すみません、わざわざ」
 
俺の手から、申し訳なさそうに小銭を拾っていく彼女。
 
「あの」
 
「もし良かったら、お礼させてもらえませんか」
 
釣り銭を渡しただけなのに、お礼?
 
いやいや、そんなはずはない。
 
これはタチの悪いハニートラップだ。
 
――でも、誰が何のために?
 
もはや芸人でもないこの俺に、そんな大層な仕掛けを用意するメリットなど、どこにもない。
 
脳内で、思考のフリップがどんどんめくられていく。
 
そして、全ての良くない可能性にツッコミを入れた後、はっきりと返事をした。
 
久弥
「是非お願いします」
 
×                      ×                      ×
 
早い話、可愛い女性に誘われて、ついていかない理由がない。
 
たとえそれが、甘い罠であっても。
 
テッテレーという音がこの時間を中断したとしても、
 
それまでの甘いひとときは、事実として俺の胸の中に残り続ける。
 
それでいい。
 
目の前にいるこの女性は、俺の存在を認め、食事に誘ってくれた。
 
その事実だけで、俺の心は薔薇色だった。
 
久弥
「お名前は」
 
玲子
「レイコっていいます」
 
久弥
「素敵なお名前ですね」
 
玲子
「歳のわりに古風な名前だねって、よく言われます」
 
久弥
「僕は全然、そうは思いません」
 
玲子
「嬉しいです」
 
玲子は笑顔を絶やさなかった。
 
薬指に指輪はしていなかったし、頻繁にスマホを気にする様子もない。
 
これが、チャンスというやつか。
 
思えば20代から今まで、色っぽい経験は一つも味わってこなかった。
 
命を削っていたからだ。
 
でも今は、その必要もない。
 
ゆくゆくは、彼女のために命を削ることだってできる。
 
それだけの覚悟が、俺にもある。
 
だってもう、30だぜ?
 
夢を追い続けている喜一には大変申し訳ないのだが、
 
俺はもう、残りの人生は誰かのために使うと決めた。
 
願わくば、彼女のために――。
 
玲子
「久弥さんは、どこに住んでらっしゃるんですか?」
 
まだ、お互いの居住地も知らなかった。
 
少し早まりすぎたようだ。
 
×                      ×                      ×
 
ディナーは彼女がご馳走してくれたので、
 
その後のバーは俺が払うと伝えた。
 
「お礼のお礼です」とか、適当な理由をつけて。
 
芸人時代の俺が聞いたら、飛び蹴りしてきそうなセリフだ。
 
ジョークにしたって寒すぎる。
 
だが俺に、もはやユーモアのプライドなどない。
 
玲子と出逢うのが今で、本当によかった。
 
芸人時代にはプライドが邪魔してできなかったようなことが、いとも簡単にできてしまう。
 
彼女の座る椅子を引いてやること。
 
的外れな愚痴にも「そうだね」と言ってやること。
 
車道側を歩くこと。
 
昔はそんなの、ただの“あるあるネタ”でしかなかった。
 
「良い男ぶってる奴あるある」だ。
 
ミイラ取りがミイラじゃないが、ネタにしているような人種に自分がなるわけにはいかなかった。
 
“享受する側”とは、こんなにも楽で、こんなにも心が豊かなものなのか。
 
彼女の笑顔は、みるみるうちに増幅していった。
 
芸人時代、こんなにも人を笑顔にしたことはなかった。
 
×                      ×                      ×
 
終電を急ぐ途中、俺たちは迷子になった。
 
どちらからともなく。
 
あの言葉はまやかしで、正しくは「どちらからとも」だ。
 
お互いが能動的でないと、あらゆる物事は成立しない。
 
わざわざ、こんな細い路地の、ホテル街に迷い込むことも。
 
玲子は急に走るのをやめ、俺のシャツの裾あたりを摘んできた。
 
玲子
「帰っちゃいますか?」
 
そして、どちらからともなく、俺たちはホテルへと入った。
 
×                      ×                      ×
 
とんとん拍子。
 
そう言えばそうかもしれないが、
 
将来を見据えている俺からすれば、長い道程のほんの一歩目にしか過ぎなかった。
 
ベッドの中にいるうちに、次の約束を取り付けたい。
 
そう思って寝転がった時、玲子が口を開いた。
 
玲子
「ごめんなさい」
 
玲子
「久弥さんに、嘘ついてました」
 
「え?」という気持ちと「やっぱり」という気持ちが、同時に去来した。
 
やはり、手の込んだ罠か。
 
――いや、だから誰が何のために?
 
その答えは、思ったよりも早く俺にもたらされた。
 
玲子
「私、喜一の妻です」
 


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