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教科書とちょっと違う日本史の教え方

日本史の、いや現代日本の、紙幣の肖像となった回数が最も多いのは誰だろうか。天皇の地位にあった方ではない。聖徳太子、その人だ。彼があまりにすごいため、実像はともかく、なぜすごく描かれるようになったか、そこに研究の焦点が当てられている。彼がやったか否かより、彼のいた時代に起こった出来事として、広く俯瞰してみる方が有意義だろう。
冒頭画像は、本稿の参考図書(下記)からの引用。

今回の参考図書は、歴史エンタメを、あの吉本で提唱・行動されている、房野史典氏の(共同執筆)作品。彼のツッコミが、面白い。



こまかくこだわりすぎない「古代」

聖徳太子の時代、最大の出来事と言えば、日本国内に、おぼろげながらも国家の規範を設けたことだろう。権威づけを行い、官僚組織を創り、そこに権力者を取り込んで、国家の規範の中に押し込んでいった。それゆえに、国としての外交にも着手することができた。外と内との区別がようやく明確になった時代でもある。日本は、当時の、超大国・中国の属国でもなければ、原始的な社会でもない。古代国家としての産声を上げたのだ。

国ができると、世の中の富は政権のもとに集まるようになった。それを社会に還元しようと始められたのが、大仏造立などの仏教事業だ。また、奈良時代を通してインフラ造営事業が活発になる。指導者は、都を造り、遷都を繰り返した。日本に限らないことだが、人民を大量に動員させるために宗教は欠かせないものだ。今日ほど律令が徹底されていない時代背景では、人々を組織化させる上での宗教は、武力と並んで、国家統治の両輪である。

大仏のすべて|奈良市観光協会

それにしても、大仏造立とはなんと悲惨を極めた事業だろう。高さ16メートルの像に500トンもの銅を流し込んだ。(山口県の)長登銅山から運んだことが分かっている。使用された錫は8.5トンにのぼる。銅と錫を混ぜ合わせた液体の青銅は高温(1000度)になり、大変危険な作業だったことがうかがえる。そして金メッキを施すのに、400キロの金を用いた。陸奥の国から見つかったばかりだったという。金は水銀に溶かされ(アマルガム)、大仏に塗りつけられた。その際、水銀は火で焚いて蒸発させるのだが、作業員は大量の水銀を吸い込んだはずだ。この危険な事業には、のべ260万人が動員されたと推定される。古代版の公害被害だったはず。



ただ、難しいのは、今の価値観だけで奈良の時代を見てしまうことだろう。天皇・貴族が仏教に帰依するのは分かるが、全国に国分寺・国分尼寺を建立したのは、庶民が駆り立てられてのことだ。土地制度に見られるように、国家の関与がどんどん強まる中、庶民は果たして安寧安心を得られていたのか、それとも搾取されるだけだったのか。歴史家の判断は分かれている。

そんな奈良から京都への遷都。このときは、時代を画する大きな変化を伴った。平城京から長岡京へ、さらに平安京へと。その主役は怨霊である。当時は、干魃が続き(降水量が少なく)、気候的にも厳しい、そして十分な灌漑施設がない時代だった。貴族たちは仏教の教えに逃げ込み、度重なる都市の造営事業も庶民に負担を強いたまま。疫病や天災を、怨霊の仕業としたのも無理ないことだった。平安京遷都以降、時代が落ち着いてくるのは、過度な仏教依存が一段落したからである。


何でもありの「武士の時代」

日本の官僚機構は(中国と異なり)脆弱なままだった。貴族は土地の所有者というだけで、国の経済の舵取りを行うわけでもなかった。中国との国交も途絶えてしまったため、貴族の政治は緩みっぱなし。そこに台頭してきたのが、荘園を治めるために武装した集団だった。彼らは武士と呼ばれ、中央政権でも警備の役割を担う。武士の棟梁のひとつである平家は、海賊の取締から、貿易の主体者へと変貌し、その富を用いて権力の階段を登り始めた。そして、従来貴族が独占していた「権威」をも徐々に崩していくことになる。

画期的だったのは、もう一方の棟梁・源氏である。荘園を束ねる武士たちを味方につけ、貴族と強気の交渉を始めた。東国を掌握し、都の平家も倒し、その統治を全国に広げるべく、上皇の軍さえも破った。従来の「権威」が落ちるところまで落ちてしまった。これがご存知、『鎌倉殿の十三人』の時代である。そのNHK大河ドラマが描いた世界は、「幕府」という秩序も、武士の世のしきたりも、そして誰もが納得する人民のための法規さえ存在しない時代、しかも舞台は東国だった。当時を生きた人にとって、誰が統治者で、どのような秩序ができたのか、さぞ実感できなかったことだろう。今日の我々が、(歴史学にて)鎌倉幕府の成立年をはっきりしえないのは、ひとえに、当時の誰も「幕府」という仕組みを知らなかったからだ。

【鎌倉市観光協会】鎌倉殿×13人の重臣たちやゆかりの地などを紹介


日本の国にとって、再び目の覚める時代となったのはモンゴル襲来である。「再び」とは、その一回目が、奈良時代の「白村江の戦い」だったからだ。日本は朝鮮半島の沖合で、中国・朝鮮(唐・新羅)の連合軍に大惨敗をした。国として、何となくカタチを整え始めた時代の出来事だった。大化の改新からまだ20年ほどという時期に、無謀な戦いに踏み切ってしまった。敗戦後は、西日本の各所に防衛施設が作られ、いつでも徴兵するための、戸籍の整備もなされた。相当の焦りがあったはずだ。

では、モンゴルのときはどうだったか。幕府も、朝廷も、彼らの脅しを「ガン無視」、見てみぬふりだった。決断を先送りにするのは、日本の「伝統芸能」かもしれない。それが災いし、九州での激しい闘いとなる。モンゴル軍と思われた大軍は、事実上、やる気のない高麗軍だった。火薬などの武器に、日本の武士たちも驚かされはしたが、いつの間にか、相手側が乱れ、墓穴を掘ったものと思われる。海上の戦闘ではモンゴル軍の強みを発揮することもなく、また日本も武士政権のもと、(白村江の頃とは違って)それなりの組織(動員)力を示す結果となった。

さて、天皇という権威と、武士という権力が共存した日本において、ややこしいのは、南北朝の時代だった。武士とはとにもかくにも戦いが好き。その口実として、天皇の位をめぐる争いが利用された。その天皇も、これだけ代が重なれば、対立の種は必ず生じてしまうだろう。そのひとつが、持明院統と大覚寺統だった。その原因を知ってみれば、実に「くだらない」揉め事なのだが、何百年間に及ぶ争いになってしまった。両者の亀裂は修復不可能なほどだった。しかも、この話はなんと、昭和天皇の時代にもささやかれることになる。

話を戻そう。本来なら、応仁の乱から戦国時代に至る話こそ、人々を魅了する物語だ。しかし、中央が乱れる何年も前から、関東では有力者たちの対立が始まっていた。あまりにも乱れたので、北条早雲が出てきて、勝手な統治を始めてしまった。それが印判状である。ご当地大名がみずからの意思で物事を決定する、そのスタイルが独立国のような意味をもった。こうして他の大名も徐々に、独自の統治を始めるようになったのが戦国時代である。


フィクションだらけの「戦国時代」

英傑三人(信長・秀吉・家康)へと話を進めよう。NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』で主役を張った明智光秀。彼の前半生は、一次資料が一切ない。歴史学では(主に)同時代を生きた人の資料しか根拠とはしないので、光秀の登場は1569年となる。これは、あの桶狭間の戦い(1560年)で信長が勝利してから、勢力を拡大、ついに京都を完全掌握した時期である。あの三好三人衆を畿内から追い出し、天下(畿内)を治めた。それからわずか二年後、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちにし、その功労者として明智光秀を、織田家臣最初の城持ちに引き上げている。さらに1579年には、光秀が丹波を平定。ついに彼は国持大名へと出世した。


「スピード出世」「妻一筋」 ナゾ多き武将・明智光秀の真の姿|ダ・ヴィンチ

そんな光秀が1582年には謀反を起こし、信長を死に追いやってしまう。とにかく、部下に裏切られまくった信長は、ここでもやらかしてしまったのだろう。何かと神格化されがちな信長だが、実際には、戦に何度も敗れ、人にも裏切られ、楽天楽座などの看板政策も、他人の真似ごとにすぎないと言われている。また、武田(勝頼)軍を破った長篠の戦いは、圧倒的な大軍を率い、鉄砲の弾薬利権を生かしたという当然の勝利。彼は、戦国の異端児ではあっても、ドラマなどでは過大評価されすぎだ。その前提で冷静に見ると、リアルな人間・信長像に近づける。

他方、秀吉の話にはさらに多くのファンタジー(後世の作り話)が加わる。備中の高松城への水攻めは、もともとあった自然堤防をちょっと足しただけ。神がかりの移動速度を誇った中国大返しも、本能寺の変を(何らかの理由で)事前に知っていれば(あるいは信長の安全面のリスクを懸念して準備していれば)、不可能ではなかっただろう。その他、墨俣一夜城なども含めて、数々の太閤記本が(江戸時代以降に制作)記載されている。すごい人物には違いないが、下剋上のヒーローとしては眩しすぎる。フェイク満載。

もう一人、家康はまさに歴史の勝者である。官軍によって書かれた関ケ原の戦いへと続くドラマチックな展開は、フィクションと分かっていても面白い。東軍(家康側)は、最初から西軍の三倍の兵力を有していた。なぜなら、大軍を率いていた西軍の大将・毛利勢はほぼ動かないと分かっていたし、小早川秀秋は、裏切りと言うよりは、早々に東軍に寝返っていた。

三人の英雄史は、何百年もかけて完成されたもの。いやはや、道理で、面白いわけだ。


経済を考えるようになった「江戸時代」

いつの間にか、江戸幕府の世が定着し、大坂方(豊臣家)は自滅、キリスト教は禁止され、多くの外様大名が改易・取潰しの憂き目にあった。その結果、幕府の治世は安泰になった。当時の幕府は(俗に言われる)「鎖国」政策を採り、成長なき時代に突入したかのように思われているが、実際には対外貿易が安定し、元禄まで史上稀に見る高度成長が続いた。また、日本の銅は中国に輸出され、銅銭の6割を担ったとされる。その中国からはシルクや絹織物が輸入された。そして、新田開拓も着実に進み、江戸時代初期は本当の泰平の世を築いたのだ。

さあ、将軍・綱吉の時代である。生類憐れみの令によって「犬公方(バカ将軍)」と呼ばれていたかもしれないが、実際には、時代の通念を大きく転換させた名君だった可能性がありる。大坂城が陥落してから70年。人々もすっかり代替りしたとは言え、戦国の野蛮な風習を消えたわけではなかった。また、あの忠臣蔵(赤穂事件)のように、血なまぐさい事件も起こっている。そこで綱吉は儒学を奨励し、殺傷を厳しく禁じた。武士はこの頃から、官僚へと様変わりし、文治政治への転換を完遂させたと言える。

江戸時代も中期に差し掛かると、幕府の窮乏が始まった。そもそものきっかけは、元禄バブルの崩壊である。勘定方のトップとして経済政策を切盛りしていた荻原重秀は、貨幣改鋳によって市中の資金量をどんどん増やしていった。当時流通していた小判の、金・銀の含有率を下げ、小判の流通量を増やしたのだ。差益はそのまま幕府の収入となった。明暦の大火からの復興や、神社仏閣の修繕など、公共事業に要する費用は膨大だ。それを、この金策でまかなった。主要な金山が底をついた事情もあり、貨幣改鋳による幕府の財政出動は、見事な財政・金融政策だったと言える。

しかし、天災は続き、元禄・宝永の大地震や富士山の大噴火が立て続けに発生。幕府には重い財政負担がのしかかった。繰り返された貨幣改鋳はついに物価の高騰を招き、完全なバブル状態となった。こうして経済が大混乱し、新井白石の登場となる。貨幣は再改鋳され、結果的に緊縮政策へと舵を切る。ここに、八代将軍・吉宗の(享保)改革も加わり、景気は大幅に後退。幕府財政はいくらか立て直されたとは言え、社会全体は極端なデフレに苛まされる。江戸時代の経済政策の揺らぎは、景気活性化と改革引締めを繰り返し、経済学的には非常に興味深い研究対象となっている。


さあ、時代はいよいよ幕末へ。その前に、江戸幕府の三大改革に触れておこう。「改革」がいずれも江戸期後半に集中しているのは、制度疲労が原因である。米を財政の基盤にしていた幕府にとって、米余りの時代は(米価が急落し、逆に収入が減ってしまうので)どうしても困窮化してしまう。そんな幕府財政を立て直そうと「改革」が始まった。しかし逆に、ひとたび大飢饉に見舞われれば、米を作れない農民にとって、なすすべがなかった。これにより社会不安が高まる。米余りと大飢饉が繰り返された江戸時代は、この構造を解決しきれなかったことも、幕府崩壊の遠因になったに違いない。三大「改革」と言いながら、幕府統治を延命させるためだけでは、制度疲労や構造危機にメスを入れることはできなかった。

もしも、幕府の存命を図るとしたら、三大「改革」ではなく、田沼意次の経済政策や、井伊直弼の対外開放に、ヒントがあったのかもしれない。絶対的権力を握った意次は、経済活動の奨励、蝦夷地開拓の推進、印旛沼の大干拓、そして東西貨幣制度の統一など、農本主義から重商主義へと舵を切ろうとした。また、井伊直弼は不安定化する社会の動揺を抑え、開国に進もうとした。当時、孝明天皇が異様なほどのトラブルメーカーぶりを見せ、攘夷派を振り回していたが、この度重なる激震に耐えきれなかったのが幕府である。悪人と称せられるこの2人は、意外と真っ当なことをやっていたのだ。

歴史の評価を決めるのはいつも勝者側である。勝てば官軍。幕末ヒーローの面々は、たいてい維新を進めた側であり、それに抗った連中が悪人となる。幸い、歴史研究が進み、日本では極端な「善悪」で歴史を語らなくなっている。しかも史実を見極める冷静さをもとうとしていた。そんな日本史学の正しい姿勢は称賛に値する。たとえば、輝きを放った幕末の坂本龍馬。たくさんの功績はひとつずつ否定されかけている。薩長同盟から船中八策まで、関係はしていたが主導していたわけではない、と。そしてなぜ、彼のヒーロー話が創作されたか。そんな理由にまで迫る。ヒーローが消えていくのは寂しい話だが、よくよく考えれば、一話完結のドラマに出てくる完全な悪人、圧倒的なヒーロー(ヒロイン)など、なかなか存在しないものだろう。

歴史を学んで役に立つのは、時代を川の流れのように俯瞰できることだ。その流れはつながっている。上流で起こった些細な出来事も、目の前の流れにいくらかの影響を与えているのだ。時々は、見直してみたい。僕たちの国でかつて起こったこと、そして今、起こっていることを。



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