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日本列島創生を神話でなく地質学にて

壮大な、祖国の物語を、建国神話ではなく、列島誕生史として語ってみたい。参考図書は、児童図書で見つけたものである。題して「100万年史」。こちらはブルーバックスで読んだ名著をもとにしている。ところで、地質学の観点から、長い大地の物語を、直近100万年に限定してしまうと、ほんの一瞬の出来事になってしまう。地球史では、プレートが動くという理論があっても、たかだか100万年では、移動量は少ない。ゆえに、かつての僕は、海面の上下でもって、日本列島が大陸とつながったり、離れたりしているものだと思っていた。実は、ちょっと異なるのだ。わずか100万年でも、日本列島の誕生には大きな変化があった。それらの物語は、この図書に先駆けて見た、NHKのジオ・ジャパンに詳しい(笑)。冒頭画像はそこからの借用。


国土創生の物語;大地がちぎれて誕生

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実際の日本列島は、ユーラシア大陸からちぎれるように離れていったと考えられている(上記の図は「キッズ日本海学」からの引用)。地下から上昇したマグマによって、大陸の東端が割れてしまい、そこに海水が流れ込んできた。これを日本海開裂と言う。海洋プレートが大陸の下に沈み込むとき、付近にあるマグマが押し上げられ、地上部に顔を出すのだ。そこでできた割れ目が「開裂」であり、放射状に広がった。地球は球体であるため、その割れ目は弧を描く。ゆえに、列島は両側に引き伸ばされた挙げ句、真ん中でプチっと割れてしまった。この境目が今日のフォッサマグナである。なるほど!では、そのフォッサマグナ(大きな溝)とは何だろうか。


日本海側では(直江津を中心に)柏崎と糸魚川の間を横に結んで、かつ太平洋海側では静岡と銚子の間を同じく横に結んで、それらの囲んだ箇所がフォッサマグナとなる。この地域は、その大半が(割れ目として)かつては海面下だった。太平洋側からは、絶え間なくプレートがやってきて、日本列島の下に沈みこむ。そこで海底にあった堆積物が、日本列島(海溝斜面)にぶつかりどんどん積み上がった。それが縦に隆起したものを「付加体」と呼ぶ。付加体は、海底に堆積した泥やプランクトンの死骸、火山灰、サンゴの化石の堆積物である。日本列島を構成しているものの一部とはまさにこの付加体が、グニャグニャと大陸の側壁に押しつけられ、山と盆を形成した。それを示した下記の図は、地質学研究室からの引用である。

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産業技術総合研究所・内野研究室のページ

海側からのプレートによって、押されて盛り上がった部分が、日本の山脈だ。奥羽山脈は南北をまっすぐ貫いているが、これは太平洋プレートが直角にぶつかってきているからだ。本州の中央・日本アルプスになると山脈の向きが変わる。これは太平洋プレートとフィリピンプレートがぶつかり合い、プレートの沈み込む向きが変わったからだ。ちょっと特別なのは伊豆半島。この半島(塊)はフィリピンプレートに乗って北上し、日本列島に衝突。そして箱根や富士山を造った。日本の地形の高低は基本的にこの原理で生まれたとされる。

火山大国日本をカルデラで知る

さて、富士山を含めて、日本列島にはたくさんの火山がある。火山は、地下のマグマが吹き上げて誕生する。そのマグマはマントルの中のカンラン岩が、地球内部の圧力によって溶け出し、そこに水が加わったものだ。マグマは周囲の岩石より軽くなるため、常に上昇しようとして「たまり」始める。これがマグマだまりだ。そこに、プレートの沈み込みから圧を受けたり、水が供給されたりして、マグマだまりが膨張。そのマグマを大地が抱えきれなくなったとき、火山爆発が起こる。ひとたび大噴火が起こると、火山そのものは陥没し、ここに、カルデラ(湖)ができる。北海道の屈斜路カルデラは、東西26km、南北20kmという日本最大規模だ。次にくるのが、阿蘇カルデラ。東西18km、南北25km。箱根にもカルデラがあり、大涌谷(箱根山)を中心に芦ノ湖を構成しているところまでが、東西8km、南北11kmである。

カルデラと言えば、もうひとつ「鬼界カルデラ」を挙げておこう。九州・薩摩半島の南50kmにある硫黄島一帯(種子島の西)がそれだ。海底地形から推測されるカルデラの規模は、日本最大級どころか、世界でも有数(溶岩ドームの推定量)のようだ。このときの火山灰層(アカホヤ)は約7300年前に生じた。九州や四国一帯で見ることができる。残念なのはここに(おそらく)日本人(の祖先)が住んでいたことだ。その下の地層に、丸木舟を作ったとされる円柱状の磨製石器が発見されている。しかし噴火以前と以後とで、まったく異なる文化圏の遺物が見つかっているため、鬼界カルデラの噴火により、消滅した文明があったことをうかがわせる。

近代日本を担った関東平野の誕生

押されて盛り上がったところは山脈になり、その逆は凹みができる。この原理は日本列島の色んな場所で見られる。プレートがぶつかるところの前方は高くなり、その後ろ(つまり手前側)は広くなる。それを「前弧海盆」と呼ぶが、盆のところに土砂が堆積していくと、平野ができる。今日の関東平野はその典型である。1.7万平方kmの面積は、日本ダントツの1位。2位の十勝平野の二倍の広さだ。この関東平野を日本人がモノにしたからこそ、近代の繁栄の礎となった。

関東平野は面積17,000平方キロメートル。全国土面積の5%になる広大な土地です。そもそも日本には少ない平野部の面積で見た場合、関東平野は実に18%を占めます。ここには全人口の34%にあたる4260万人が住んでいることから、非常に重要な場所であることが分かります。関東平野の特徴は、中央部が沈降していることです。実際、縄文時代には、中央部が海面の下に沈んでしまい、とても「平野」と呼べる状態ではありませんでした。
下記サイトよりの引用

地球が温暖化した時期、海面は上昇した。縄文時代には、温度が今より 2~3 度高かったらしく、海面の高さは 3~5 m上昇した。これにより、関東平野には海水が深く入り込み、内陸部に多くの海岸線を作った。そこに住み着いた日本人が貝塚をたくさん残しており、貴重な遺跡となっている。この時期を「縄文海進」と呼ぶ。千葉市若葉区にある加曽利貝塚は(今日の海岸線から数キロも内陸だが、かつては海辺で)日本最大級の規模である。学術上の価値が高い(下記画像は千葉市観光ガイドよりの引用、その下は千葉市)

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千葉市観光ガイド:加曽利貝塚
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千葉市:千葉県初の特別史跡「加曽利貝塚」

関東平野は後に、徳川家康の本格的な開発を待つことになる。同地は、海水が引いた後も湿地帯であり、農耕に適さなかった。治水を制して肥沃な平野を造る、その家康の思いを具体的なカタチで実行したのが、利根川の付け替え工事である。今日の江戸川が古利根川であり、今の利根川は栗橋のところから、関宿を経由し、旧常陸川へと合流させたものだ。利根川東遷と呼ばれる大事業だった。(下記画像は国土交通省からの引用

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利根川上流河川事務所

古代日本を誕生させたなだらかな地形

では、日本にとって、古来よりの中心地だった近畿圏の地形はどうだろう。弧状に隆起した日本列島はフォッサマグナを中心に東西に分かれていた。アルプスから西は、比較的なだらかな(2000m級の)地形が九州まで東西方向に続いた。その途中、旧近畿圏には三つの湖(湖盆=湖の砂や泥が堆積)があったとされている。今日の伊勢湾は東海湖盆、琵琶湖は古琵琶湖湖盆、そして京都から大阪の一帯は淡路島に至るまでを大阪湖盆。大阪の地形を調査すると、海水面の上下動によって、陸地になったり海底になったりしている。その湿地にはいち早く人類が定住し、水運を引き込んで、海外とのつながりをもつようになった。そこからやや内陸の奈良の地に古代日本の都ができたのは、決して偶然ではない。また、やや内陸の京都に都が造られたのも、内海~琵琶湖とつながる中間地という立地の理由だろう。

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瀬戸内海の概況|せとうちネット(環境省)

海外からの渡来人は、瀬戸内海を移動した。内海であるため、波は比較的穏やかである。水深は平均するとわずか数十メートルしかない。ひとたび海水面が下がった時代には、陸の通り道となった。「瀬戸」とは島が密集する海の狭いところを指し、瀬戸内海には70以上の瀬戸がある。船で瀬戸を抜けると、やや広くなった「灘」に至る。陸地の時代には、いわゆる盆地になる場所だ。瀬戸と灘は交互に繰り返し存在する。四国の南でフィリピンプレートが沈みこんでいるため、大地側にできるそのシワが、「瀬戸」や「灘」になったと考えられている。(上記画像は環境省のサイトからの引用

富士山への畏敬と恐怖

日本人にとって、興味を持たざるを得ないのは、富士山の地形だ。10万年前から始まった火山活動によって、噴火と泥流を繰り返し、富士山の麓には広大な扇状地ができた。南側に広がる3000ha(東京ドーム640個分)の自然は、溶岩流がもたらしたものである。溶岩は水通しがよく、豊富な地下水を形成させる。しかし、付近には川ができずらく、植物にはよいが人々には不都合な台地ができあがった。今日の青木ヶ原樹海である。1万年ほど前に、より大きな新富士山が古富士山を覆って活動を本格化。軽石の他、スコリア(マグマからガスが抜け出て、穴がたくさん空いている黒っぽい岩石)が噴出し、周囲に何層も堆積した。1707年、江戸時代中期の宝永噴火(下記画像は内閣府の防災関係記事より引用 ※PDF)では、山の南側に火口ができ、新富士山以降の最大の噴火を記録。付近の田畑は大量のスコリアに厚く覆われてしまった。当時の人々に与えた深刻な被害は様々なところに記録されている。せめてもの救いは、富士山周辺の窪地に、美しい湖・富士五湖が誕生したこと。地下水が湧き出てたまった湖が、溶岩に分断されて今の姿になったのである。

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<広報「ぼうさい」>  読み切りシリーズ「過去の災害に学ぶ」|内閣府

富士山からの溶岩流が海へと流れ出た場所の一つは、今日の足柄平野だ。酒匂川(さかわがわ)の下流域であり、小田原市街はここにある。この平野は、地質関係者の間では非常に注目を集めている。東には日本最大級の活断層があり、その南は相模トラフにつながっている。富士山が山体崩壊したとされる御殿場泥流も、この地を厚く(30m)覆った。当時の崩壊は、富士山の八合目から上をすべて吹っ飛ばすほどの規模でないかと推計されている。この酒匂川付近の復興には、ある有名人が登場した。二宮金次郎である。火山灰やスコリアで台無しになりかけた土地に、深い溝を掘り、スコリアを移動させた。これは「天地返し」と呼ばれ、今日でも遺構として見ることができる。

ジオパーク・ブームを楽しんでみよう

最後に、日本国の創生神話に関わる最も重要な土地・出雲にも触れておこう。出雲・島根を題材にした「鷹の爪」のビデオが面白い。本稿で触れた、日本列島引きちぎれ誕生神話、失敬、創生学説が、見事に說明されている(笑)。

島根半島の低地、この小さな平野には、古代日本で最も重要な文明が栄えていた。当時、日本海側は大陸の文明圏にも近く、対馬海流に乗って、人々がやってきやすい位置だった。また同じ日本海側でも、山陰地域の海は浅めで、豊富な漁業資源に支えられていたことも有利に働いただろう。島根半島が防波堤になり、内海となった宍道湖では豊かな海産資源を利用できた。

今日の「ジオパーク」はちょっとしたブームになっている。その受け皿となる組織も、日本全国にたくさんある。ジオを学び、そこで楽しみ、自然の恵みに感謝する。こうしたブームは大歓迎だ。NHKでは、ジオ・ジャパンが放映され、大反響を呼んだ。

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話を続けよう。ジオの優位性から誕生した出雲。その後背の中国山地では古代から良質な砂鉄が採れた。それが最初の製鉄業となり、「たたら製鉄」として出雲の繁栄を導いた。江戸時代に入ると、大規模な砂鉄収集が始まる。砂鉄を含む風化した花崗岩を切り崩し、そのまま水路に流したのだ。これは「鉄穴(かんな)流し」と呼ばれる。その土砂が下流域に堆積し、島根や鳥取の平野を拡大させることになった。これは人間の活動が、ジオに影響を与えた事例でもある。ちなみに、鳥取西部の日野川では宍道湖ひとつ分の土砂が削り出されたらしい。その下流域の弓ヶ浜半島には、鉱滓(スラグ)混じりの砂が大量に堆積している。一見、自然の地形に見えるものも、人間との深い関わりの中で形成されていくものだとあらためて実感させられる。

それはそうと、「ジオ」の話は、日本の創生・建国・発展に大きな影響を与えていたことになる。日本列島の成り立ちが、日本の歴史に常に影響を与え、古都の創生から、東京の誕生に至るまで、導いていったことも本稿にて明らかになったことだろう。日本海開裂まで遡れば、(3000万年という)気の遠くなるような時間を経ているが、おおよそ100万年前であれば、僕らの知っている(今の)日本列島になったのだ。

日本列島の成り立ち(3000万年前~現在)|島根県立三瓶自然館


この文章の続編も登場。


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