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完全なる独学は存在し得るのか、独学における注意点について

さて、お久しぶりです。今回は独学に関してまた記事を書いていこうと思います。私個人に対する戒めを多分に含む記事となっております。

そもそも何をもって独学とするのか?

さて、独学というものに対して皆さまはどの様な印象をお持ちでしょうか。おそらく世間一般的にはペンと紙(本、ノート)を用いて一人で黙々と行うものであると考えられていることだと思います。

書籍や活字以外のメディアを用いた独学は現時点ではあまり独学だと認識されていない空気を感じます。

しかし、直接指導者から教えを請わなければ媒体関係なく独学と定義することは出来るみたいです。それにも関わらず動画学習が独学と認識されない理由について次節で述べて行くことにしましょう。

なぜ動画学習は独学と認識されないのか?

定義上、動画学習も独学である筈なのになぜ独学と定義されないのかについてですが大きく分けて①動画学習が普及してから日が浅い事②動画学習は受動的な学習であると言った偏見がある、の二つ要因があると考えます。

①についてですが、動画学習そのものに関しては昔から予備校などでは珍しくありませんでした。しかし、予備校を通じた学習というのは世間一般的に学校教育と同列のものだとされ、独学とは認識されません。それに加えて動画学習が屋内で行えるようになってから日が浅いわけです。故に、動画学習→予備校→独学でないといったイメージが根強く残ってしまっているのだと考えます。

②に関しては、確かに動画学習はイメージを挟む余地が少なく、流れる動画を一方的に受け入れざる得ない面もあるため、受動的であると認識されても仕方ない面もあると思います。しかし、それは動画というメディアの問題ではなく個人の学習スタイルの問題なのではないでしょうか。読書だって多読や速読が喧伝されていますが、これも情報を受動的に受け入れるのがメインであり、自分で考えているとはいいがたい面もあります。また、動画学習であれ、疑問に思ったら一時停止ボタンを押し、どうしてそうなるかを考え、ノートにメモしたり調べるなどすればそれは十分に能動的であると言えるのではないでしょうか。

つまり、動画学習が独学だと認識されずらいのは、主に個人の学習スタイルの問題の一般化と予備校のイメージが強すぎることに起因すると考えます。

本当に書面のみで独学を行えるのか

世の中には読書を通じて学ぶのが正しい、動画学習は熟考しないため分かった気になるだけだ、読解力がないと生き残れないと言った言説が少なからずあるように思えました。

確かに、これらの言説は一理あります。最終的には論文や専門書を通じて学ぶことになるでしょうし、学習において熟考する過程は必要不可欠でありますし、読解力は学習に限らず何をする上でも大事な能力です。

しかし、今現在書面を通じて独学できておられる優秀な方々の多くは、それに至るまでの過程に他者からの指導を受けた経験があるのではないでしょうか。

小中高の授業は流石に聞いてたでしょうし、分からないことがあったら教師や友人に質問することもありましたでしょうし、大学の講義を聞いたりレジュメや定期考査を通して要点を把握するくらいはやったはずです。また、実験を通じて具体的なイメージを養ったり操作手順を身に着けたり、ゼミの輪講を通じて文献の読み方について学ぶこともあったはずです。

さて、それらの影響を一切挟まない完全なる独学を行えた人は果たしてどれだけいるのでしょうか?私の見立てとしてはごく少数なのではないかと考えます。新たな分野を独学できていると思い込んでいる人だって、その分野の基礎に当たる読解、語彙、数学的思考などは他者から教えを受けた上で身についた能力なのではないでしょうか。

完全なる独学など余程特殊な場合を除いて存在しえないと私は考えます。仮にそれを行ったとしても基本はろくなことにならないのが落ちです。

私は量子力学と統計力学をほぼ書面を通じた独学のみで勉強しました。その甲斐あって、院試で十分に得点できる程度には出来るようになりました。しかし、独学で培った知識というのは具体性に欠け、脆く儚いものでありました。実際にそれを専門とする人たちと話し合ったところ、自分の解釈はところどころ歪んでおり基礎となる数学や物理学的知識が抜けていたため、応用は利かず、手詰まり状態となってしまいました。

実際問題何かしらの資格試験を突破するのみならば書面上のみでも十分に達成可能です。しかし、より具体的なイメージを脳内に形作ったり、実践を意識するのであれば最初は極力独学を避けるか或いは動画学習を通じた方が無難なのではないでしょうか。

最初から最後まで独学できる人がいたとしたらその人は真の天才なのでしょう。もし、自分が凡人であると自覚しているのであれば謙虚に先人の教えを乞うことをお勧めします。独学はあくまで基礎を身に着けた上で応用的な技能を身に着けるときに力を発揮するものなのです。

独学する上で大切なこと

この節では、動画学習(スタディサプリなどのサービスも含む)も独学に含むと定義した上で話を進めて行きます。

独学に大切な事、それはコミュニケーション能力でも才能でも知能指数でもなく謙虚さであると考えます。謙虚さを忘れた独学程恐ろしいものはありません。人は、物事を学んでその分野の大まかな枠組みを理解したとき、自分の実力を過大評価してしまう癖があります。所謂ダニングクルーガー効果です。

さて、読書のメリットは想像力を鍛えられることにあると世間一般的には言われます。それは裏を返せば自分の想像で物事を理解した気になってしまいやすいことでもあるのです。すなわち、初学の手段として読書を用いてしまうと、自分の想像力でイメージを形作ってしまい、それの脆弱さに気付かないまま誤ったイメージを重ねてしまい、軌道修正が難しくなってしまう上に自分がその物事を十分に理解できてないことにすら気付けないまま学習を進めてしまうリスクがあるわけです。

一方で初学に動画を用いればその手のリスクは軽減されるはずです。動画は具体的なメディアであり、一方的に進んで行きます。ですが、それ故に少なくとも物事を誤解して解釈してしまう危険性は減ると考えます。また、一方的に動画が進んでいるが故に話を聞いてて自分が理解できてないって感覚に気付きやすい面もあるのではないでしょうか。読書というのは立ち止まって考えることが出来てしまうが故に自分勝手に解釈した上で進んでしまえてしまう危険性もはらんでいます。一方で動画というのは変な解釈をしてしまったとしても具体的であるが故に自分のイメージの過ちに気付きやすいのです。

さて、よくある批判として動画は間違った情報が沢山あるから危険だと言ったものがあります。それは事実ではありますが、動画というメディアに限らないのではないでしょうか。本だって、偏った政治的思考、似非科学など誤った情報を広めてしまってるような物は沢山ありますよね?結局のところ個人のリテラシーの問題に帰着する訳です。動画学習を批判する要素にはなりえないと私は考えます。

結局のところ独学に重要なのは謙虚さ、自分の認識の過ちに気付けるだけの敏感さ、与えられた情報に対する審美眼なのです。

まとめ

・能動的に学ぶ姿勢があれば基本は媒体に関係なく独学と言える

・動画学習が独学とされないのは一般的になってから日が浅いのと、個人の学習スタイルの問題を過度に一般化してしまってるからに過ぎない

・完全な独学(一からすべて自分の力のみで身に着ける)は幻想にすぎない、どこかに切っ掛けはあったはず

・独学を行うのに必要なのは謙虚さただ一つ

※この記事は、すべて私自身の反省に基づいています。

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