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音のイメージと身体の結びつき/作品上演中の字幕での「Mx.」使用について

チェルフィッチュは2021年より取り組むノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクトとして、日本語が母語ではない方々とのワークショップを行っています。その成果の1つとして2023年8月、チェルフィッチュ新作『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』が吉祥寺シアターにて世界初演を迎えました。
東京公演の関連企画として、チェルフィッチュ以外のアーティストによる日本語が母語ではない方々との演劇ワークショップを開催しました。noteではワークショップ講師によるレポートを公開。
今回は贅沢貧乏主宰の山田由梨さんによるレポートをご紹介します。


先日、チェルフィッチュから依頼を受けて、同劇団のノンネイティヴの日本語話者による演劇プロジェクトの一環として、演劇ワークショップ(以下WS)を行うことになった。日本語を母語としない/あるいは母語だと感じていない人を対象にしたWSで、実際に参加してくださった皆さんは中国・タイ・カナダ・イタリアなど様々な言語を母語とする方々だった。
演技の経験も様々で、実際、普段は演劇の仕事に携わってはおらず演技をすることもないが、興味があってきたという方や、こういう日本語を母語にしない人を対象としたWSというものが珍しいので参加してみたという、演技未経験の方々が多い印象だった。

WSの中では、自己紹介と最近考えていることを皆さんにお話しいただいたのち、わたしが主宰する劇団・贅沢貧乏のメンバーとダンサーの武井琴さんと開発した演技のためのワークを中心にいくつかのことを試した。
尚、今回のワークショップは私と武井琴さんの二人でファシリテーションした。

そのうちの一つに、オノマトペを使ったワークがあるのだが、面白い発見がいくつかあったので、紹介したいと思う。
ルールは、まずそれぞれがこの世に存在しないオノマトペを紙に書いて(例えば、ジャミジャミとか、マヌマヌとか、なんでもいい)、周りに見られないように折りたたんで集める。
それから、動詞も紙に書いて折りたたんで別の山にしておく。動詞は、歩く・走る・笑う・飛ぶ・蹴る、など単純な動作のものが好ましい。
ある出題者が、オノマトペの紙と、動詞の紙をひいて、それを組みわせた動作(例えば、ジャミジャミ・歩く、とか)を皆の前でやってみる。見ているほうは、その人がやっている動作が何のオノマトペを表現しているのかを当てようとする(「んー、それは「ホイホイ歩いてる」?」とか)。全然検討違いなものしか解答されない場合、出題者は動きを修正する。そしてまた当ててもらう。
まあ当たらないのだが、当たらなくてもいい。出題者が存在しないオノマトペを動きにするときに、「この音をどんな動きで表現しよう」と考え、身体に落とし込もうとしている時が面白いし、解答者が、人の動きを見て、それが「どんな音の動きっぽいだろう」と考えているときが面白い。そういう遊びだ。

紙に書いたこの世に存在しないオノマトペと動詞

ただ、これを日本語を母語としない人たちとやってみようとしたときに、改めてオノマトペというものがとても日本の言語文化の特徴的なものであるということに気付かされた。
他の国にもオノマトペは存在するが、日本は圧倒的に数が多い。実際、WSの中で参加者に日本語のオノマトペをどう思うかと尋ねると、「意味がわからない」とか「一番難しい」などため息まじりの感想が多かった。
わたしだって、サラサラの髪というときに、どうしてそれがサラサラと表現するのかと問われると、答えられない。あたたかい日に「今日はポカポカ陽気だね」などと言うことがあるが、それがなぜポカポカなのか説明できない。別にあたたかい日にポカポカっぽい音がするわけではないし、「ノマノマ陽気だね」とかでもいいはずだが、そうは言わない。なぜ「ポカポカ」なのかは説明ができない。

オノマトペは、なんとなく生活の中で習得するもので、日本語を勉強する人にとって、それは難しいし厄介だろうなと思う。タイ出身の方が、水の音を「ジョックジョック」と言うのだと教えてくれた。日本だと「ジャブジャブ」という時の、それに近いのかもしれない。
あるいは中国出身の方が、「ちょんじょちょんじょ」という新しいオノマトペを開発して紙に書いてくれたのだが、他の方の書いたものに比べて複雑に感じる音だったので、どうしてその音を書いたのか聞くと「電車と電車がすれ違うときの音をこう感じるから」なのだと教えてくれた。その方が、実際に「ちょんじょちょんじょ」を口にしてくれているのを聞いて、たしかにそう聞こえるかもしれないな、と思った。でも、わたしだったら電車と電車がすれ違う音を、なんと表現するだろう。「ちょんじょ」は思いつかない気がする。「ブワーン」とかだろうか。

オノマトペをやってみる様子

劇団でこのワークをやってみたり、(日本の)知り合いの演劇人に参加してもらって試していたときは、オノマトペそのものについての疑問は話題に上らなかった。オノマトペは生活のなかにある当たり前のものであるから、そのことについては話さないし、耳で聞こえる音を言葉(文字)にするときの感覚も、なんとなく日頃のオノマトペの使用経験から共通の感覚がある。

しかし、日本語を母語としない人たちとそれをする時には、オノマトペそのものに関する疑問が話題にのぼるし、どうしてその動きをその音のように感じるの?どうしてその音はそういう動きになるの?ということの細かいやりとりの中に、お互いの異なるバックグラウンドを感じることになる。ここで改めて、違うバックグラウンドを持つ者が集う場の豊かさを感じた。何気ないと思っていることへの感じ方もそれぞれで、そこから、見てきた景色の違い、育ってきた文化の違い、考え方の違いを知ることができ、とても興味深かった。

チェルフィッチュがわたしにWSを依頼したのは、今回の「日本語を母語をとしない俳優とのクリエーション」という試みが、自劇団のみの活動にとどまることなく、その機会をより広げていきたいという意図があったからだ。
たしかにわたしは日本で生活していて、店で、電車で、街で、様々な国の人と生活を共にしていると感じるのに、舞台の上で(あるいはわたしはテレビドラマの仕事もするのでテレビドラマなどでも)、その自然な溶け込みを感じることはない。それは表象に偏りがあると言える。日本を母語としない、日本で活動する俳優もさまざまな表現の場で当然キャスティングされるべきなのではないかということを考えた。改めて、チェルフィッチュの皆さんにはこのような機会を与えていただいたことに感謝を申し上げたい。

最後に、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』の上演を見て、作品の内容とは直接関係がないことかもしれないが、問題に感じた箇所についてこの場をお借りして記しておきたい。わたしはチェルフィッチュの稽古場で本作の本読みを聞いていたが、その時には気づかなかったことが、上演ではあった。

本作は、地球から派遣された人間たちが、自分たちの言葉(日本語)を習得してくれる宇宙人と出会うため、宇宙船の旅をしているという話だったと理解している。わたしが問題に感じたのは、物語の途中でいつの間にか宇宙船の中にいたという宇宙人:サザレイシさんの字幕における敬称である。字幕ではサザレイシさんは、Mx.という敬称がつけられていた。

 Mx.はMr.やMs.などの性別敬称の一種で、多くの場合は性別を明らかにされたり、性別によって言及されたりすることを避けたいジェンダークィアの人々によって使用されるものである。作品の中でサザレイシさんは自らクィアの敬称を使ってほしいということを言ったわけではなさそうだし、周りの人間たちが、その敬称で”勝手に”呼んでいるということで間違いはなさそうだった。

サザレイシさんは宇宙人だから、性別があるかわからないし、というか性別という概念があるのかもわからないし、クィアの敬称をつけるのがいいのではないか、というような単純なプロセスでその敬称が使われていたのだとしたら、それはあまりにも無邪気すぎるし、そして、乱暴なのではないか。

途中、得体の知れないサザレイシさんに対して、隊員の一人が凶暴度チェッカーで凶暴度を測っていたシーンがあった。私には、クィアの人たちが誤解や差別を受けていた歴史と共に、とてもグロテスクなシーンに見えた。
宇宙人という人間にとって最も未知で得体のしれない象徴的な存在に、クィアの敬称であるMx.を使い、凶暴かどうかを機械でチェックする。このような暴力性は、演出上意図されたものではないはずだ。

Mx.という敬称は、いつの間にか自然にできていた敬称ではなく、ミスジェンダリングに苦しんだ当事者たちが、生み出し、使用を続けてきた歴史を経て、ようやく定着しようとしているものだ。今回の作品の字幕で、サザレイシさんの役に対してあえてMx.という敬称を使用する決定をした際に、こういったことは話題にあがることはなかったのだろうか、上演するまで、誰も疑問に持つことはなかったのだろうか。と、考えてしまった。

ここでわたしがもう一つ考えるのは、今回の日本語を母語としない俳優たちによる日本語の演劇上演というこのプロジェクトの英語字幕で、必ず敬称をつけなければならないというルールは本当に必要だったのだろうかということだ。必ずしも日本語が正しくなくても、イントネーションが違っていても、文法が多少違っていても、伝わる。もしかしたら“より”伝わるかもしれない/それはなぜなのか、という言語の可能性を模索しているこのプロジェクトで、サザレイシさんに性別敬称をつけるという英語の文法的ルールは本当に必要だったのかと問いたくなる。

セクシュアルマイノリティに関する知識は、作品の中でマイノリティの表象をしようと思ってする人たちだけに必要なのではない。知識がないことが、知らない間にある種の残酷な無邪気さで当事者を傷つけたり搾取したりすることに繋がる。そういった例を様々な場面でこれまで嫌というほど目にしてきた。自分にも知識がない時が当然あったし、間違え、当事者を傷つけたことがある。そしてそれを今、猛烈に反省している。このような知識は表現に関わる人間は少なくとも必ず持つべきなのだ、と自戒を込めて言いたい。多くの人が気づかない点かもしれないが、それでもわたしはこれが問題であったと書いておきたい。

文 山田由梨

山田由梨
1992年東京生まれ。作家・演出家・俳優。立教大学在学中に「贅沢貧乏」を旗揚げ。俳優として映画・ドラマ・CMへ出演するほか、小説・ドラマ脚本の執筆も手がける。『フィクション・シティー』(17年)、『ミクスチュア』(19年)で岸田國士戯曲賞最終候補にノミネート。2020・2021年度セゾン文化財団セゾンフェローI。


上記山田由梨さんの原稿でも触れられている、本作の英語字幕における敬称使用について、経緯をこちらでお伝えしております。合わせてご覧ください。
『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』の英語字幕の敬称使用についての経緯
https://note.com/chelfitsch_note/n/n9d1872016668


次回公演情報
チェルフィッチュ 『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』京都公演
KYOTO EXPERIMENT 2023
2023年9月30日(土)〜10月3日(火) ロームシアター京都 ノースホール

<京都公演 関連企画>日本語を使ったワークショップ「自分自身を想像して見る」
日時:10/1(日) 13:00〜16:30
場所:京都芸術センター北ギャラリー
講師:野村眞人
参加できるひと:日本語が母語ではないひと/母語だと感じていないひと
(日本語がうまくはなせなくても、演劇をやったことがなくてもOK)
持ち物:水を一本お持ちください。サイズや種類等は問いません。水筒でも構いません。
床に座ったり、寝転がったりするかもしれないので、汚れても良い動きやすい服装でお越しください。

参加無料
※予約が必要です。定員あり。

<ノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクトについて>
演劇は、俳優の属性と役柄が一致せずとも成立するものです。それにも関わらず、日本語が母語ではない俳優はその発音や文法が「正しくない」という理由で、本人の演劇的な能力とは異なる部分で評価をされがちである、という現状があります。
ドイツの劇場の創作現場で、非ネイティブの俳優が言語の流暢さではなく本質的な演技力に対して評価されるのを目の当たりにした岡田は、一般的に正しいとされる日本語が優位にある日本語演劇のありようを疑い、日本語の可能性を開くべく、日本語を母語としない俳優との協働を構想しました。
2021年よりチェルフィッチュはワークショップやトークイベントを通してプロジェクトへの参加者と出会い、考えを深めてきました。2023年3-4月にはこれまでのワークショップ参加者を対象にオーディションを実施、選ばれた4名とともに『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』を創作・発表します。
今後も活動を継続し、このような取り組みが他の作り手にも広がることで、日本語が母語ではない俳優たちの活動機会が増え、創作の場がより開かれた豊かなものになることを目指します。