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ここにはない〈役〉の想像と、私がここにいるための態度を考える

チェルフィッチュは2021年より取り組むノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクトとして、日本語が母語ではない方々とのワークショップを行っています。その成果の1つとして2023年8月、チェルフィッチュ新作『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』が吉祥寺シアターにて世界初演を迎えました。
東京公演の関連企画として、チェルフィッチュ以外のアーティストによる日本語が母語ではない方々との演劇ワークショップを開催しました。noteではワークショップ講師によるレポートを公開。
今回は演出助手も務める、Dr. Holiday Laboratory主宰の山本ジャスティン伊等さんによるレポートをご紹介します。


こんにちは。チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』で演出助手をしている、山本ジャスティン伊等です。
前回は稽古レポートを書きましたが、この記事では僕が講師を務めたワークショップのレポートをお届けします。
今回のワークショップでは、僕が主宰する団体 Dr. Holiday Laboratory のメンバーである小野寺里穂とロビン・マナバットにも協力してもらいながら、最終的にちいさな即興劇を作ることを目標として、いくつかのワークに取り組みました。参加者の方々は出身地や年齢はもちろん、すでに日本で俳優として活動している方から、演劇に関わるのはこれが初めてという方まで、実に様々でした。

さて、本題に移る前に、少し長めの前置きを書いておきたいと思います。
「日本語が母語ではない俳優との協働」というプロジェクトは、チェルフィッチュだけでなく今後広く色々なアーティストによって活用され、また日本語を母語としない人々が日本語で演劇に参加するためのプラットフォームとして機能させていきたい、という話を僕は事前に聞いていました。
一方で、そうしたプロジェクトの第一弾として行われた今回のチェルフィッチュの公演に演出助手として帯同しながら、岡田利規以外の作家にもこのコンセプトで作品制作が可能なのか、疑問に感じていたのも事実です。
それゆえ、今回のワークショップを行うにあたってまず考えたのは、参加者の方々にとって良い経験になるようにしたいということと同時に、僕や Dr. Holiday Laboratory にとっても演技や演劇について考えるための糧になるような機会にしたい、そのなかで、日本語が母語ではない人々とどのように制作することが可能なのかを考えたい、ということでした。
僕は、2月に上演した『脱獄計画(仮)』という作品で、舞台という空間に対して持っているモデルを自分の中で刷新し、この作品から、他の出演者によってセリフをさえぎられたり、否定されたり、ときには身体接触によって相互に強く介入しあい、力が絶えずひしめき合う空間を模索したいと考えるようになりました。

Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』公演の様子

それは暴力とも紙一重のものです。しかし僕が考えたいのは、他者に介入することで傷つけることを目指すものではなく、舞台空間にいる生身の人間が、今この場にこのような人間としてあることを、後ろ盾なしに自ら主張していく、そのような仕方で存在する人々によって成立する舞台空間でした。
一方で演劇は、今ここにないものを周囲の環境にあてがい、あるいは見立てることで、観客に想像させる傾向が強いジャンルの一つです。そしてそうした想像の一つとして、〈役〉というものがあると言えると思います。俳優が舞台上で、あるセリフを言う。すると観客は、その俳優が何かしらの環境を担い、何かを表現しているように感じてしまう。
つまり舞台上には、俳優同士が絶えず能動性を発揮し合う空間と、その空間そのものの受け取り方を規定してしまう観客の想像の空間という、二重の空間があるということになります。

そのような舞台空間を作るための演技には、「日本人がなんとなく正しいと思える日本語の発音」も「正確に、流暢に喋る能力」も必要ないのではないか、と僕は考えました。
大切なのは言葉の意味や音それ自体ではなく、言葉や身振りを、この場においてどう受け取らせるかの質感、すごく俗な言葉でいえば「態度」であり、観客あるいは舞台上に一緒に立っている俳優が、自分の「態度」をどのように想像するかを考えつづけることではないでしょうか。

ワークショップ当日は、まずアイスブレイクとして、じゃんけんを使ったかんたんなゲームを行いました。

ジャンケンを使ったアイスブレイクの様子

①はじめにじゃんけんをする。
②そのままの状態で、お互いのあいだに衝立を立てて、相手の手が見えなくなるようにする。
③90秒間、話し合う。ただしこの話し合いのあいだに、プレイヤーは一度だけ手を変えることが可能。


ルールはこんな感じの、非常にシンプルなもの。
①の時点でもし負けているなら、相手の手を変えさせるか、自分の手を変えて、勝てる状況に持っていくコミュニケーションが必要になるし、①の状況で勝っているなら、その状況を保つためのコミュニケーションと手を考えないといけない。
もちろんここにおけるコミュニケーションは、単に言葉によるものだけでなくて、相手の表情や動きも含めてのもの。短い時間で交わされる言葉や身振り、表情を、どのように用いて自分が有利な状況に持っていくのかを考えるゲームです。
僕の説明や話がなかなかうまく伝わらないときには、他の参加者の方が代わりに説明してくれることもあり(講師としては若干不甲斐ないですが……)、最初は少し緊張した雰囲気だった参加者の方々も、ゲームを進めていくうち、徐々に打ち解けていきました。

次に行ったのは、お題に沿ったポーズをとってもらい、別の参加者がそのポーズにタイトルをつけていくというもの。具体的には以下の手順で進めました。
①参加者を2チームに分ける。
②最初にポーズをとるチームの1名がお題の書かれた紙を引き、チーム内で共有。
③各自好きな場所で、お題に関連するポーズをとる。
④もう一つのチームは、ポーズを見ながら、タイトルをつける。タイトルを紙に書き、場所を決めて紙を貼る。

ポーズをとっている参加者(右)とそれを予想している参加者(左)

このゲームで大切なのは、どんなポーズをとっているのか「当てる」ことが目的ではないということ。
例えば、「公園」というお題で、参加者の一人がベンチに寝そべるポーズをとっていました。この方は「酔っ払い」のポーズをとっていたつもりでしたが、「人生」とか「悲しい知らせ」といった抽象的なタイトルが出ていました。また、ポーズをとっている人そのものではなく、そこから想像される周りの状況をタイトルにした方もいました。
どうしてそのタイトルにしたのか、由来を聞いていくと、一見シンプルなポーズに見えても、各々の参加者が着目するポイントにかなり違いがあり、とても盛り上がりました。
元々のお題やポーズをとっている人が想定したものと一致しているかどうかよりも、あくまでも自分が考えるものと他者から見て想像されるものとのズレ、あるいはちょっとした身振りから、ここにはない周囲の環境を表現しているように感じられることについて、あらためて考えました。
もちろん実際の作品ではセリフや美術によって、ある程度方向づけられるとしても、その想像は、観客の側が各々持っている生活や文化に大きくゆだねられることになる。今回のワークショップでは、時間の都合もあってそのことをさらに実践するところまではいきませんでしたが、今後、自分の身体と他者の想像の差について考えていくためのヒントはやはりあったと感じました。

以上二つのゲームを経て、全員で車座になって座り、二人一組で順番に即興で話していく簡単なエチュードを行いました。

エチュードの様子

これを行うにあたって、以下のようなルールを決めました。
①オチのある話をしない
②話を始めるときに、たとえば「高校の同級生で山田っていう人がいたんだけど、その山田が〜」というような、話題の前提は言わない。
③二者択一の状況や会話を避ける。そのような話が出ても、別の選択肢で話を進める。
①は、その場を面白くするために、話の内容を使わないようにするため。この記事の最初に書いたように、今回は言葉の内容よりも、そこに伴う質感の拮抗によって、どう場を成り立たせていくかということに焦点を置いています。
②と③は、参加者が二人で座っている状況に対して、すぐには特定のシチュエーションや関係性を作らないために設けたものです。上で書いた通り、人が二人、座って会話しているのを見ているだけでも、僕らはそこに社会的な関係性や何か特定の環境といったフレームを肉体に対して想像し、あてがって見てしまう傾向にあります。
そうして他者からあてがわれるフレームを受け入れつつ、絶えずそこからはみ出していく状況を作る、ということをこのワークでは目的としました。
結果的に、各々の参加者から語られる話題は由来となる前提が把握されないままで会話がなされていき、何かしらの役や状況に見えそうで見えない、あまり見たことのない特異な空間を作り出していました。

エチュードを行う参加者とそれを見る参加者

最後に、こちらで用意したテキストと設定を前提として、先ほどのエチュードで得た話題や身振りを使いつつ、もう一度行いました。
開きかけた扉の前に、神の審判にかけられた二人の人間が座っている。この二人は天国に行くために、自分が生きていた頃のことを話している……というのが、僕が用意した設定です。
扉があるという環境が共有されるだけで、同じ話や身振りの受け取り方が変わってきます。視線を動かしたり、足を組み替えるだけのことが、神に対するアピールのように見え、見ている参加者からも演技する本人たちからも思わず笑いがこぼれました。
もちろんそれは同時に、正面からの(天国に続く扉と、その向こうの神の視線)を意識しながら行う仕草が、存在しないはずの扉を現前させているということでもあったと思います。

今回は、自分が行う仕草を、今この空間においてどのように作用させるか、またそれを受け取る観客が、自らに対してあてがう想像との差を考えるワークショップとなりました。
はじめに書いた通り、僕は当初、自分が日本語を母語としない人々と協働して演劇を作ることができるのかどうか、若干の疑問を抱いていました。
しかし言葉をかならずしも流暢に話せたり、日本語ネイティブと同じように発音できることはかならずしも必要ではなく、舞台空間の俳優同士の、あるいは現実に見えているものと想像の差をうまく使うことができれば、全く遜色なく、演劇として興味深い空間を作ることができる。ある意味で当たり前かもしれない、そんなことをあらためて実感し、ひるがえって演劇にとって言葉とは何かという問いを、今後さらに考えるきっかけとして、非常に貴重な機会となりました。

☆☆☆☆☆
ワークショップ当日は、講師は山本ジャスティン伊等のみが記載されていますが、冒頭で書いた通り、Dr. Holiday Laboratory の二人にも手伝ってもらいました。今回のような貴重な機会は、僕一人だけでなく、ぜひ団体の三人で一緒に考え、実施したいと思った次第です。
またワークショップの準備には、数人の俳優に協力と助言をいただきました。ありがとうございました。

文 山本ジャスティン伊等

山本ジャスティン伊等
1995年生。アメリカ合衆国サンタモニカ出身。早稲田大学大学院修士課程修了。Dr. Holiday Laboratory 主宰。最近の演出作品に『うららかとルポルタージュ』(2021年、BUoY)、『脱獄計画(仮)』(2023年、こまばアゴラ劇場)。トーチwebにてエッセイ「ひまの演出論」連載中。チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』では演出助手を務める。


次回公演情報
チェルフィッチュ 『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』京都公演
KYOTO EXPERIMENT 2023
2023年9月30日(土)〜10月3日(火) ロームシアター京都 ノースホール

<京都公演 関連企画>日本語を使ったワークショップ「自分自身を想像して見る」
日時:10/1(日) 13:00〜16:30
場所:京都芸術センター北ギャラリー
講師:野村眞人
参加できるひと:日本語が母語ではないひと/母語だと感じていないひと
(日本語がうまくはなせなくても、演劇をやったことがなくてもOK)
持ち物:水を一本お持ちください。サイズや種類等は問いません。水筒でも構いません。
床に座ったり、寝転がったりするかもしれないので、汚れても良い動きやすい服装でお越しください。

参加無料
※予約が必要です。定員あり。

<ノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクトについて>
演劇は、俳優の属性と役柄が一致せずとも成立するものです。それにも関わらず、日本語が母語ではない俳優はその発音や文法が「正しくない」という理由で、本人の演劇的な能力とは異なる部分で評価をされがちである、という現状があります。
ドイツの劇場の創作現場で、非ネイティブの俳優が言語の流暢さではなく本質的な演技力に対して評価されるのを目の当たりにした岡田は、一般的に正しいとされる日本語が優位にある日本語演劇のありようを疑い、日本語の可能性を開くべく、日本語を母語としない俳優との協働を構想しました。
2021年よりチェルフィッチュはワークショップやトークイベントを通してプロジェクトへの参加者と出会い、考えを深めてきました。2023年3-4月にはこれまでのワークショップ参加者を対象にオーディションを実施、選ばれた4名とともに『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』を創作・発表します。
今後も活動を継続し、このような取り組みが他の作り手にも広がることで、日本語が母語ではない俳優たちの活動機会が増え、創作の場がより開かれた豊かなものになることを目指します。