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ゲイと恥

30代半ばの僕は、自分がゲイだということを、一部の友人にはカミングアウトしているものの、家族や職場などでは公表していないし、するつもりもあまりない。それは自分の中に『ゲイは恥ずかしいこと』という気持ちがあるからだと、最近強く思うようになった。

20代前半の子達が、自分の身分を公表した上で、セクシャリティーのことや、パートナーとのことを公表しているのをSNSで見かけると、心の底から羨ましく思う。二人の記念日をレストランでお祝いし、店のスタッフに撮ってもらったであろう写真をSNSに載せることなども、もう全く珍しくない時代だ。僕には到底できそうにない。

僕が彼らに対して抱く羨ましさは、公表していることへの羨ましさというよりは、彼らの生きる姿から自らのセクシャリティーに対しての恥じらいや戸惑いが感じられないことへの憧れだ。

もちろん現代の若者にも葛藤はあるのかもしれない。そして僕より年上の方でもゲイであることに恥じらいなんて一切ないという方もいるだろう。でも、30代以上の人が育ってきた頃と今とでは、明らかに社会が変化しているし、情報の量も違う。僕の恥ずかしさの根源にあるのが時代背景であるというのは、僕にはある程度の確信がある。

中学生の頃の僕は、テレビの中でオカマと蔑まれる対象としてしか、ゲイというものを認識できていない状況で、もしかして自分もゲイなのかもしれないという、とてつもない恐怖と一人で戦わざるを得なかった。治さなきゃと思って、自分の心を必死に矯正しようとして、でも変われなくて、死にたいと思ったことが何度もあった。ゲイであることは、まだ若い僕には抱えきれないほどの『恥』だった。

僕がもし今10代だったら、20代前半だったら、自分の中に気づかないうちに育っていた『ゲイは恥ずかしいこと』という意識は、こんなに大きくなかっただろうと思うのだ。

大切なパートナーとの関係を、いくら周囲や社会が認めてくれたとしても、僕自身が『恥ずかしい』と思う気持ちはなかなか変えられない。

だから、きっと僕はいつまで経っても、恋人と恋人でいられるのは、誰にも見られていない部屋の中だけ。やましいことがあるわけでもないのに、まるで不倫をしているみたいに、コソコソと愛し合うのだろう。SNSの中の若いカップルと比べると、それは不幸だなと思う。

大好きな人に愛されても、素敵な誰かとセックスをしても、不特定多数にチヤホヤされても、決して満たされない心の空洞。その原因は、もしかしたら、この『自分自身に対する恥ずかしさ』から来るものなのかもしれない。

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