ミニマリストは泥棒だという弁明

私はミニマリストで泥棒で栄養失調でサバイバーです。それを今から説明していきます。

私は去年ひとり暮らしを始めました。私はミニマリストだったので家に物を置けませんでした。

冷蔵庫はもともと付いていましたが、電源を入れませんでした。
備え付けの収納スペースは、入れる物がありませんでした。
6畳の部屋にあるのは、ベッドとテントだけでした。
家に食料はありませんでしたが、お金もありませんでした。
自炊をしようにも、キッチンが狭すぎてまな板も置けませんでした。
引っ越すときに持ってきたものは、ほとんどを使わずに送り返しました。
使い過ぎを防ぐために、お金の利用に強い制限をかけていました。

ひとり暮らしです。こんなところで暮らしてたらどうなるでしょうか。
そう、不便なのです。でも自分はそれに気づかなかったので、週に一度「支給」される生活費を片手に街へうきうきと買い物に行きました。

そうした生活の中で揃えていったものがこれらです。

鍋、風呂の椅子、Wi-Fiルータ、トラックボールマウス、磁石フック、クロックス、プラスチックの食器、箸、食器置き、座椅子、畳、ハンガー、オタマ、電源タップ、ゴム紐、机、椅子、ラック、ワセリン、包丁、玄米、水筒、手袋、ネックウォーマー、リュック、トートバッグ、自転車、レインコート、タッパー、ティッシュ、洗剤、スポンジ、トイレットペーパー、風呂桶、シェービングジェル、爪切り

これらは、すべてひとり暮らしを始めた当初は家になかったものです。即ち、当時の自分はこれらは生活に必要ないと思ってました。

ただでさえ少ない生活費、そしてその中で買って、試して、時にはまた捨てて。そうして繰り返していく中で自分に必要な物が少しずつ分かってきたのです。
ですが、こうした物が少しずつ溜まっていくということは生活費の中からこれらを買っているということです。そして買い物という行為は欲と好奇心を刺激しますし、時間も気力も体力も大きく奪われてしまいます。大学に今度こそ通えるようにと始めたひとり暮らし。ですがその時間もお金も何もかもがそもそもの「生活」を始めるために消費されてゆきました。そもそも始まってもいなかったのです。

そんなわけで、前期は散々でした。こんな状態でいったい何ができるというのでしょうか。生活費は生活以前へ消えます。残ったお金も自覚のないままに蓄積したストレスの解消のために「めぼしい」新商品へと消えます。そこにさらに「カフェイン」による不眠・生活リズム崩壊・記憶欠乏が襲います。

不足した栄養、零れ落ちる単位、叱責による責苦、際限なく膨れ上がる好奇心、残らない記憶、対症療法的な対策。自分にできたのは時によって貯まる「生活費」によって生活が安定することを待つことのみでした。

そして、とても恥ずかしいことですが、これをどうにかする方法はひとつしかなかったのです。そう、窃盗です。
自分が世話となっている部室を、あたかも自室のように手を入れ、人のいない日を狙って居座りました。片付けたり整理しているのは自分です。代々積み重なった余計なものが散乱する部屋です。例え少しくらいなくなっても気づかないだろう…そう考え実行したような気がします。まずはずっと放置されてるお菓子から…だって、誰も食べないのだから…。

これはうまくいったように思えました。ですが、自分がそうして部室という場所に手を入れていくに従って、どんどんと自他の境界が曖昧になってゆきました。そうなってはもう止まりません。別の部室にも出入りしました。学校中を練りまわり、所有者のいない物を探しました。公園を徘徊し、落ちてるものを探しました。

怪しまれ、嫌われ、避けられ、蔑まれました。客観視もできなかったのでしょうがないでしょうか。今の自分から見ても正常な反応だと思います。身の回りにそのような人間が居るということ自体が恐ろしいリスクです。

気づいたのはようやく「生活」がまともになり、「普通」というものの気楽さ・考えなくてもよい快適さを知った頃だと思います。なんせ、私にとって生活とはサバイバルだったのですから。

これは自分の話です。ミニマリストの話ではありません。ただの全身拘束具によって不具の状態から始めたというだけの話です。気力体力時間というパラメータの存在を知らなかった者の話です。愚かですね。
ですが、こうするしかなかったのだと思います。ミニマリストに憧れ、節約生活に憧れ、共同村落に憧れ、相互扶助に憧れ、信用経済に憧れ、サバイバルに憧れ、アナキズムに憧れ、ベーシックインカムに憧れ、無職に憧れ、ハッカーに憧れ、起業に憧れ、リタイアに憧れ、隠居に憧れた、象牙の塔に憧れ、霞を食べることに憧れた人間を更生させるには長い時間と実験と失敗を繰り返す必要があったというだけの話です。それだけなのです。