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読後感 #1 「人は成熟するにつれて若くなる」

お元気ですか

どてさんぽ です☺︎

今回は、介護職から援助を受ける利用者の気持ちについて考えます。

✳︎✳︎✳︎

年を重ねるってどういうことなのか?
時間の流れや、物事の捉え方はどう変わるのか?

しばらくの間、
介護事業所という同じ場所で過ごす介護者と利用者をみていて、
それぞれの時間の流れる速度は異なっている、
そんなふうに感じていました。

介護者は働くためにその場所にいるので、その場所で生活するために居るわけではない、と考えると

茶碗を拭いたり、洗濯物をたたんだり、外を散歩したりする行為の一つひとつであって、

利用者にとっては日常生活の一部である一方で、介護職員にとっては日常業務の一部であると思います。

利用者が生活を円滑に送れるように支援するのが介護の役割なんだから、介護者は時間刻みで当たり前、
利用者の皆様はどうぞゆっくりしていてください…

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これは、パワーバランスが問題になりそうな関係だと思います。

どちらかが忙しい関係といえば、小説に出てくるような
家政婦さん、お嫁さん、お弟子さん、
物語の中で、仕える立場の人たちは、いつも忙しそうに働いています。

同じように考えるなら
介護事業所とは、自分に仕えてくれる人が居るところでしょうか。

…そうとも限らないようです。

例えば
肝っ玉母さんのような介護職員が「私に任せてくれたら大丈夫!」とばかりにその場所で采配を振るっています。

頼もしいので、いつのまにやら
「私の言う通りに動いてくれたら何も問題無いから!」と
同僚だけではなく、利用者の生活パターンも(良かれと思って)管理しようとしてしまいます。
奉仕を受けるどころか、見守られることなしに自由に移動することもできない時もあります。

その場所で、自分が安全を守らなければいけない立場になって
危ない状況を作らないためには…
肝っ玉母さんのように振る舞ってみよう!
相手と距離を近くして、気を許せる関係になろう!

利用者が黙っていると、一生懸命話しかけたり、楽しい雰囲気を作ろうとしてイベントを頑張ったりして、常に常になんらかの反応を利用者から引き出そうとします。

肝っ玉母さんになろうとする人は、どこかで無理をしてしまうか、自分自身の経験をその場の状況に当てはめようとする人が多いように思います。

極端な一例にすぎませんけれども、

いずれにせよ、利用者と介護者は対等な立場とは言いがたく、どちらかの立場を優位にしなければ、その場の秩序が保たれない状況に陥りやすい関係と言えるかと思います。
これは、職員数が充足していても変わらず、いつのまにか出来上がってくる関係でした。

なんとも不自然です。

皆、優しくて、親切だけど、自分だったら、ここで生活したくはない...息が詰まる…
申し訳ないのですが、私自身がそのように思っていたことがありました。

✳︎✳︎✳︎

しばらく経ってから、
なんとなく、利用者と職員に距離があることに気付くようになりました。

利用者から、なんとかして反応を引き出し、介護職員がその場の秩序を保とうと努力する意識の底に、

利用者のことを
心に中に何かをしまい込んで、どこか遠い存在で、
利用者から言葉があったり、なんらかの行動があった時には、
介護者も話しかけたり、介助することはできるけれど、
普段黙って居る時には、何を考えているのかよくわからない…
手持ち無沙汰とか、つまらない、退屈だと思われていないか

こんな当惑と不安があるようにみえました。

生活していれば、
黙っているときもあるのが人なのに、黙っている相手に違和感を感じてしまっている。

相手の心持ちがわからない

✳︎✳︎✳︎

介護職員の気持ちに少し気付いたところで、
利用者の心持ちは私にもわかりません。

でも、楽しそうな老後を送っている人は知っている
と思い、
ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するにつれて若くなる」を読みました。

ここ、この老人の庭には、昔ならその世話をすることなど考えもしなかったたくさんの草花が咲いている。
そこには忍耐の花というひとつの高貴な草花が咲く。
私たちはしだいに沈着になり、温和になる。
そして介入と行動への欲望が少なくなればなるほど、自然の生命や同胞の生命に関心をもって眺め入り、耳を傾け…  (p94)

ヘルマン・ヘッセの目と耳は、
自分に向かっているのではなく
自分を見つめる相手に向かっています。

その相手とは、生きている他者だけではなく、召された人達、自分の周囲にあった思い出や景色、そして過去の自分であるといいます。

私は老齢が私たちに贈ってくれるいくつかの贈り物の名を感謝をこめて挙げることができる。それらの贈り物のうち私にとって最も価値あるものは、長い人生をすごしたのちにも覚えていて、活力を失うにつれてそれ以前とはまったく異なった関心で見るようになったいろいろのものの姿である。(pp92-93)
もうこの世にはいない人びとの姿と人びとの顔が私たちの心に生きつづけ、私たちのものとなり、私たちの相手をし、生きた眼で私たちを見つめるのである。
いつの間にかなくなってしまった、あるいはすっかり変わってしまった家や、庭や、町を、私たちは昔のままに、完全な姿で見る。…見ること、観察すること、瞑想することが、しだいに習慣となり、…気づかぬうちに観察者の気分と態度が私たちの行動全体に浸透してくる。
望みや夢想や欲望や情熱に駆り立てられて、私たちは人間の大部分がそうであるように、私たちの生涯の何年も何十年ものあいだ、あせり、いらいらし、緊張し、期待に満ち、実現あるいは幻滅のたびごとに激しく興奮してきた。(p93)
−そして今日、あの疾駆と狂奔から逃れて…「静観の生活」に到達したことが、どんなにすばらしく、価値のあることであるかに驚嘆するのである。(pp93-94)

年を重ねた人の内面がこのように豊かであることは、
同じように年を重ねなければわからないことだと思い
また、苦しみの経験を乗り越え、
そこからさらに年数を経て得られた穏やかな気持ちに憧れます。

さらにヘルマン・ヘッセは、ユーモアをもって自分よりも若い世代を見つめています。

若い人びとが、その力と無知の優越性を持って私たちを笑いものにし、私たちのぎこちない歩き方や、白髪や、筋だらけの首を滑稽だと思うなら、私たちは昔、同じように力と無知をもって老人をせせら笑ったことがあったことを思い出そう。
そして敗北感を味わうのではなく、優越感をもって私たちが年をとってそのような年代を卒業し、ちょっぴり賢くなり、辛抱強くなったと考えよう。 (p95)

ここまで読むと、気づきがあります。

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介護者は“みられている”
観察者である利用者によって

でも、それは悪意があるからとか、暇だからとか、手持ち無沙汰だからとか
ではなくて、
その利用者が生きてきた人生の中で、会ってきた人々、周囲にあった光景
これらと、ある意味では同列のものとして

“観察されている” ということだと思います。

年を重ねた者は、どの世代と対峙しても、自分の価値は変わらないという安定があります。
沈黙の中にある人には、その中で完結した秩序と落ち着きがあるのかもしれません。

この場合、介護者のすることは、やはり反応を引き出すことでは無いのだろうと思います。

無理に距離を近づけるのではなく、
観察されている者としての振る舞いをすること
介護者も環境の一部であると認識してもらうこと

介護職としての支援が、自分の感じる満足で終わらないように、改めて振り返る機会になりました。

                          ではまた👋

ヘルマン・ヘッセ著 V.ミヒェルス編 岡田朝雄訳『人は成熟するにつれて若くなる』草思社文庫 2011


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