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坊主憎ければ袈裟まで憎い  どこかでブレーキをかけないといけないね

相手を憎み続けているうちに、際限がなくなってしまうことってあるよね。

歯止めがかからなくなってしまって、ずっと相手のことを憎み続けているんだよ。

兄弟なんかでも憎しみ合っている事は多いよ。もう何十年も前のことないんだけれども、裏切られたことを根に持ってずっと悪口を言っている人もいるからね。

どこかで区切りをつけないといけないんだよ。

そのために必要な事は、その人の人格と、やった行為を分けて考えるっていうこともあるよ。

許せないことをしたと憎むわけだけれども、その許せない行為と言うのは、心の中にある考え方から生まれてきてるわけだよね。

そして、考え方が間違っていると言うのは、どこか考え方に偏ったところがあると思うんだよ。それが心ない行為に現れているんだよ。

それで偏っているというのは、全体の中のどこか一部分だけを見ていて、全体が見えてないために偏ってくる場合が多いと思うよ。

それは誰にでもあることだし、憎んでいる自分にもあるのを認めれば、人の間違いを責めることもできなくなるわけだよね。

例えば、不倫されることがあるとすると、一生恨み続けることになるけれども、本当に嫌いになって不倫したわけではないということもあるからね。

一時的な心の迷いでついつい手を出してしまったということもあるんだよ。

これは江戸時代の有名な儒学者で佐藤一斎という人が言っていることだけれども、男は50代位で再び性欲が一時的に盛んになることがあるんだそうだよ。だからこの時期には要注意しなくちゃいけないよと言っているんだね。



だから、不倫をしたといっても、心の全体を見れば、別に奥さんのことが嫌いになったわけではないんだよ。

だけど、その不倫をしたといういやらしい心だけを見ていると、相手が憎くて仕方がなくなって、さらにその憎しみがどんどん増殖していくんだね。

このように憎い相手の一部分、その醜い部分だけを見て、憎しみを募らせると言うところが問題なんだよ。

そして、この問題は、イデオロギー的な考え方をする人に多い感じがするんだよ。

例えば、トランプさんに対するリベラルな人たちの憎しみと言うのも、ものすごいものがあるからね。

特に中絶問題で激しく分かれてるんだけれども、リベラル系の人は自分の体を自由にする権利として中絶を認めてほしいと思っているので、それを奪うような考えの保守の人たちを激しく憎むからね。

だけども中絶に反対している人と言うのは、聖書に基づいて反対してるんだよね。

イエスキリストが生まれる前にマリア様がラファエルだったと思うけれども、天使から受胎告知というのを受けるんだよね。

ということはお腹に赤ちゃんができる前から、その子供が偉大な救世主になると神様は知っていたということなんだよ。

だとしたら、人間がお腹にいる赤ちゃんを殺していいわけがないからね。

トランプさんもお腹の赤ちゃんと言うのは人間の形をしているから中絶はしてはいけないんだということを大統領の時にも言っていたしね。

こうした宗教的な考え方がアメリカで復活していることがリベラルな人には理解できないんだよ。

その理由はロバートベラーと言う人が「心の習慣」と言う本の中で言っていることだけれども、リベラルな人は自由というものを、表現の自由とだけ考える傾向があるからなんだよ。

だけどもその表現の自由と言うのは自由の一部分でしかないと思うよ。

自由の中には耐える自由もあれば、不条理なことを受け入れるという自由も、一応自由としてはあるからね。

それが宗教的に見た自由だよ。迫害している人を許しなさいというのが宗教だからね。

悪を犯している人と言うのは、考え方が未熟だから間違っていることをしているわけなんだけれども、その人自身は神様が作られた神の子だということだし、良い方向に向かう可能性は誰にでもあるというのを認めるのが、宗教の立場だからね。

そう考えると、袈裟を憎んでも坊主を憎まずというのが正しいあり方だろうね。

やっぱりお坊さんを憎んではいけないよ。お坊さんは仏に使えている尊い方だし、死んだ後で仏のほうに導いてくれる人だからね。

やっぱり自分はまだまだ未熟であって、神様が作られた世界のほんの一部しか理解していないと思えば、お互いに許せる気持ちになるんじゃないのかね。

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