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夜風が凪ぐ

 闇の中を走るとき、幾分か普段より速く走れる気がする。
夢の中はいつも夜で、透き通る闇の中に、ギラギラと光る目がこちらを見ていることがある。私はいつもそれが恐ろしくなり、いつも夜の世界を走り出すのだ。
速く鋭いハヤブサのようなスピードが出て、闇の中にふいに出現する草木に手が当たり、そこが夜の林だと気付く。
息が上がるのが不思議だ。夢の中なのに、ちゃんと苦しさを感じる。覚醒夢ってやつなのかな。そっと足を止め、息を整えてふいに気づく。
あやふやな闇に溶ける林の景色に、舞い落ちるような月明かり。丸く、見たこともないほどに大きな満月。
透明な真夜中の夜を照らす、その月明かりの向こうに誰かいる。水の音が聞こえ、そこが河川敷だと気付き、私は足元に気を付けながらそこへ向かう。
そこには髪の短い、中性的な女性が川の水に足をつけて、私に微笑みかけていた。男性にしては、少し長めの黒髪。切れ長の目で、男性女性どちらにしても整った顔をした美しい人。けれど胸のふくらみがあることで女性だと気付く。
流し目の彼女は大きい声で少し低めのハスキーボイスで、英語の歌を歌っている。その歌に聞き覚えがあった。
「カーペンターズ?」
 思わず呟いてしまった声を反応して、彼女が目を見開く。彼女は悲しみ憂い、静かに目を閉じため息をついた。
「やはり、似てしまうものなんだね」
 そういった彼女の目は最後に見せる赤い夕陽の残光を宿したように輝き、目を伏せた。
「話をしないか?」
 彼女は目を伏せたまま、私を法を見ずに行った。
「なんの?」
「美香の」
 そう彼女に呼ばれて、はっと自分の名前を思い出す。そうだ、私は美香という名前なのだ。思い出した自分の名前に妙な感動を覚え、恥ずかしくなり彼女の隣に腰を下ろした。
「私、お母さんがいないんです。昔、水難事故で亡くなったとかで」
 どうしてそんなことを話し出すのかわからなかった。ただ彼女に聞いてもらいたくなった。母がいなかった寂しさをわかってもらいたくなったのだ。
「お父さんは優しかった。おばあちゃんも、おじいちゃんも、お母さんがいなくても、寂しくさせないように気を使ってくれたんです。だから、寂しいって余計、言えなかった」
 彼女は伏せたままの目を抑えるような仕草をして、俯いたまま答えた。
「それで、美香はどうしてここに来たの?」
 夜風が凪ぐのを肌で感じて、すぅーと息を吐く。草木がすれて音を立つのが収まるのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「母と同じことをしたんです。私、母のことちゃんと覚えてないのに。体が動いちゃったんです。川に溺れていた子を見ていたら、思わず飛び込んじゃった」
 私はそっと胸を手を置いて涙をためて口にする。
「……馬鹿、でしょう?」
 彼女はそっと私の頭に手を置き、慰めるように引き寄せて洋楽の歌を口にした。
「懐かしい、お母さんもその曲よく歌ってた」
 彼女の匂いに母親の面影を感じ、うっすらと涙で滲んだ目をごまかすように呟いた。
「会いたいなぁ。いつか、きっと会えたらいいなぁ」
 彼女はそっと私を自分から引き離すと、小さい声で言葉にする。
「また会えるから」
 涙声のように震えるその言葉に、ふっと体が軽くなったのを感じ、瞬きすると私はベッドの中にいた。
 顔を覗き込む父と、祖父母が思わず私に抱き着いて泣きじゃくっている。
「お前まで死んだら、お父さんは」
 そう言われて、自分は最低なことをしたのだと自覚した。父の大粒の涙を見て、なぜだか夢の女性のことを思い出した。
「お母さん……。夢の中でお母さんに会ったの」
 呟いた声は父の嗚咽にかき消され、気づいてもらえなかった。
 母は洋楽が好きで、カーペンターズの曲をよく口ずさんでいた。意味はよくわからなかったし、母が死んでからは余計、聞く気にならなかった。
 寂しかったのだ。思い出すと、ジュクジュクに腐った心の傷が疼く気がして余計に聞きたくなかった。そうやって遠ざけて、拒絶して、理解できなくて、結局同じことをしでかして、父を泣かせてしまった。
「お父さん、ごめんなさい……」
 お父さんは延々と泣いて、泣いて、しばらくしてからお母さんの話をしてくれた。
「正しいことをしたと思う。でも、俺やお前にとっては正しくない。家族にとっては正しくないんだ。寂しいよ……、今でもずっと、悲しいままだ。それぐらい、大事だった。きっと死ぬまで悲しい。……なぁ、正しい行動が必ずしもみんなにとっての正解じゃないことぐらいは覚えていてほしい。お願いだから」
 そう言葉にする父の表情が壊れそうで、私は何度も首を縦に振った。

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