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創作大賞2024応募作品 嘘月

 【あらすじ】
同級生女児を殺害し、モズのようにバラした遺体を木に括り付ける猟奇的な殺人事件。
犯人の少年は遺書を残し、留置所で自殺する。残された遺書は少年の友人であった山田に手渡される。
山田は遺書を読み、この事件の全貌を語る。

【本文】
 その遺書には、こう書き綴られていた。

『生まれたくなかった。きっと、それだけしか本心じゃない。
不意にすれ違う人間の目に、ふと気づく。その眼窩には、悪臭を放つ泥が詰まっている。異常さを持つものにしか、そうは見えないだろう。自分はどこか異質で、異常で、もの見え方がおかしく、いつも世界が狂っていた。
頭のおかしい人間の戯言をして聞いてほしい。
昔から人の心を視覚として認知できる。そういった能力があった。だからか、それを見て嘔吐し、その悪臭に鼻を抑え震える俺がほかの人には、どう見えたんだろうね。
正直に、誰かに打ち明けたところで、嘘つき呼ばわりされるだけ。
余計に人が寄り付かなくなる。だから、俺は狂うことでしか、正気を保てなかった。
 俺が正しいと思う愛を、人は正気の沙汰ではないという。それでも。俺にとってそれは普通のことで自分でいられるナチュラルな感覚だった。
基山華乃子を殺したのは、俺です。俺は彼女に、淡い恋心を抱いていました。それでも彼女を愛する反面、嫌いでたまらなかったのです。
 だから彼女の遺体をバラバラにし、モズのように遺体を木に縛り付けた。殺すことでしか、彼女に自分の好意を伝えられなかった。憎しみと恋愛のはざまで、どうしていいかわからず凶行に走ってしまった。
まぎれもなく彼女を殺したのは俺です。
 そしてこの事件にはもう一人の俺の同類がいるということ。
 普通と違うこと、擬態しなければ社会になじめないこと。そのことに俺は少しずつタガが外れていくしかなかった。
 一人がさみしく、共感が俺たちを普通の枠から外すことに歯止めをなくしたこと。
 彼は俺よりとてもさみしがり屋だから、しっかり彼もこちらに送ってください。俺が言えることは、ただそれだけです』

自分のことをこの事件の犯人というにははばかられるので、俺のことは仮に山田と名乗ることにしよう。
中学二年生の夏に彼はこの片田舎に越してきた。
両親が離婚し、母方に引き取られ実家に戻ってきたという。最初の自己紹介の時、はつらつとした声で名前を告げる彼を見て、暗い性格の自分との差にどこか近寄りがたさを感じたものだ。まっすぐにこちらを見る視線。柔和な目元。明るい印象を受けるのと同時に、どこか嘘っぽさが付きまとう。
うさん臭さが漂う一方、何か違和感を抱いた。ああ、こいつ。本当は人間のことが嫌いなのか。そう思うに至る確信があった。
眼光から漏れ出す拒絶の色。それが鋭い刃となって、見つめるもの全てを拒絶し、へらへらと笑うクラスメイトを切り裂いていくように見えて。
ぞわりと鳥肌が立った。根暗な俺の感想は、クラスメイトからしたら、何をそんなに僻んでいるのかと揶揄されそうだが。
俺には確かに彼がおかしな人間に見えたのだ。眼窩に泥が詰まって、表情筋だけが笑顔の形を決め込んでいるような。ざらざらのやすりの肌を持ちながら、それを隠し、撫でまわされることを期待している。そんなふうに見えた。
その当時の俺は、少し変な病を患っていて、人が変な風に見えていた。
例を挙げるならば、本心が言えない人は口にはマスクがされ、そのマスクには口があり、その当人が思っていることをマスクが書き換えて人と話しているのを見た。
またある時は、後ろに自分の影を背負って必死に現実の自分の首を絞めていた。その数日後、その彼女は自宅で首をつって亡くなった。
そういうことが多々あると、真実味を帯びてなんとなく悟るものだ。俺は人の心が視認できる病気なんだと。もちろん、そんなこと誰にも言えない。言えば精神異常を指摘され、軽蔑されて余計にクラス内での立場が悪くなるだろう。
 けれど、もし先の未来を知っている人間がこの時の俺の感想を知ったなら、俺の洞察力に賞賛の声を送ったかもしれない。そして、どうしてこの時にそれを言わなかったのだと、憤怒するかもしれない。
 けれど所詮、俺は根暗のいじめられっ子。
 他者から向けられるのは、いつもどろりとした粘度の高い負の感情。触れると途端にひどい火傷を負う、そんな攻撃性をはらんだ嫌悪。
 反吐が出るほど嫌いなのだ。どいつもこいつも、自分をはじき出す磁石に似ていて。近づくなと威嚇しては、泣きそうな俺をあざ笑うようで、とても加虐に満ちて恐ろしい鬼の形相をしている。
そんな彼らが俺の言うことなど、聞くはずもない。
 当時の俺は、家に帰ることもせず一人、図書室で本を読むのが日課になっていた。家族内の不和がこの時から始まっていて、母との口げんかの絶えない家の空気が嫌だった。
 ピリピリといつまでも引かない静電気をまとう空気。一触即発の中、俺は口を縫い付けたように、何も言わない人形になり果てる。
何を言っても聞いてもらえない。これは自身が招いた結果なのだけど、俺はたった一人を除いて全部から見放されていた。
 静かな図書室だけが心の拠り所だった。彼とそんな俺が初めて言葉を交わしたのは、初雪もちらつく初冬。その日のことは今でも鮮明に覚えている。
「雪って汚いよな。空気中のありとあらゆるゴミを巻き込んで空から落ちてくる。まるで埃と一緒だ」
 そういわれて振り返ると、彼が人を食ったような笑顔で俺を見つめていた。半円を描いただけの笑みに偽装した口元。笑っていない細められただけの真顔の目。普段なら嫌悪感を抱くはずだったのに、俺は少し笑ってしまった。
今日の彼はまともな人間の形をしていたから。
「汚いよな。でもきれいなものなんてないよ」
 そういう俺を見て少し目を丸くさせる。
「……文学だね。そういえば、山田って文芸部?」
 ふと目に入った彼の薄く形のいい唇が見えたとき、体中の産毛がさっと逆立つ感覚がした。汗腺からぶわっと汗が噴出したように、体から赤い信号が送られ、警報音が鳴り響く。
きっと、彼の本当の表情を見たからだ。
 だからこそわかる。彼はまともとはいいがたい。彼は人の姿をしているとき、とんでもなく美麗で色気をまとい、人を狂わせるほどの魅力を放つ。
それも彼はなぜだか俺に興味を抱いていた。だからこそ、彼はほかの誰にも俺と彼の間に入ってこないように、殺気を放つ。向けられているのは自分じゃないといえ、そのすさまじい拒絶の空気に触れ、肌がびりびりとしびれて、痛みすら感じるようで。
 その頃から、彼の殺人鬼としての片鱗は見えていたのかもしれない。何かが違うと肌が粟立ち、感じたこともない緊張が体をつつんだ。
見定められている、そんな気がしたのだ。
「俺は……、本が好きなだけ」
それだけを言葉にするのが、精いっぱいだった。彼は俺の本を勝手に奪うと、タイトルを声に出して読む。
「ちょっ、おい。勝手に……」
「人間失格」
 その言葉を聞いた瞬間、心臓が鷲づかみされた。チクチク刺さるよう蔑み憂う、その憐憫。そしてなによりも自分のことを言うように、彼は共鳴し言葉にした。
「俺も、わかるなぁ。山田もそうだろ。人間失格」
 そういわれたとき、俺は彼と初めて同じものを感じた。言葉と目線が交差し、交わることでしかわからない同類のそれは、まさしく異常者が異常者をかぎ取るときの同族嫌悪。
 ああたまらなく、こいつが嫌いだと思った。初めて人間の形をした彼を、俺はきれいだと思った。だから、縋るような頼るような、心をなでおろすような安堵に包まれたことが、悲しいほどに恥ずかしかった。……自己嫌悪なんだろう。彼と俺はまるで違うから。
 きっと俺が見えている光景は、脳の異常だと思う。
 脳浮腫などの患者が平面でしか視認できなくなることがあるように、それは脳の異常で、見えるイメージが具現化した姿に他ならなかった。
 俺を見る他者の目が、ありありとその感情の眼底を映し出し、それを過敏に感じ取ることでなしえる脳内イメージが、具現化した結果のあり様。 
 俺は心底、人を嫌っていた。誰かからあふれる感情できれいなものを見たことがない。それは両親、兄妹、友人すべてに言えることだった。
 そしてそれは自分自身にも。
 美しいと思えるものがない世界で、唯一好きなものと言えば無機物。月や星、花や絵、感情を持ちえない完成された造形物しか好きになれなかった。
 彼のことも同じだったはずだった。
いや、それ以上に毛嫌いしていたかもしれない。彼から感じ取る常人とは違う異質な匂い。生臭い、濁りを増す汚水のような、思わず鼻を覆って逃げたくなる異質な匂い。彼からは異端の匂いがした。
だから嫌いだったのに、目の前にいるのは少年でしかない。
その悲観は、見た目麗しい彼をただ色づけるだけで、何もかも凌駕して惜敗を俺に押し付ける。
流し目の憂いはどこか儚く消え入りそうな印象を受け、薄い青で視界を覆い、水に沈めたスノードームの中のように触れない存在。
 端正な顔立ちだけではとても表現できない。女性のような色香ともまた違い、強く香るような男特有の色気。均整の取れた体つきは、無駄な肉などついていない。ミケランジェロの石造のような中性的な体つき。聞きなじみのよいテノールは、不快感とは程遠い艶のある声で。おそらく同じ男としてさえめまいを起こしそうなほどの、美青年だった。
 ああ、嫌いなはずなのに、初めて彼が同じ人間に見えた。それでもあまりにも俺とは程遠く、汚い自分と比較して僻んでしまう。 
こいつは自分と違うことをはっきりとわかっていながら、人を受け入れているのかと思えば思うけど、自分の懐の小ささを示されるようで、惨めとしかいいようがなかった。
 俺は彼を避けるようになった。
一緒にいると惨めになるから、避けて、遠ざけて、彼の視界に映ることを嫌った。
けれど彼は俺と関わりと持とうとしてくる。きっかけを見つけては話しかけて、俺のことを知ろうとしてくる。
 いい加減にしてほしいと怒鳴りつけても、飄々として近寄ってくるのだ。
「なんで? そんなに俺に突っかかるの?」
 彼は人を食ったような顔をして、言い放つ。
「君は泥が詰まってないから」
「はぁ?」
 素っ頓狂な声が出た。泥ってなんだ。考えたとき、はっとする。
「君も見えるんだろ。人の心が」
 そうはっきり言われたとき、視線を泳がせて言いよどんだ。何を言っているんだとバカにした方がよかったのに。咄嗟にできなかった。この異常な世界で、初めて縋るべき寄る辺を見つけた気がして泣きそうになった。
でもすぐに自分を戒めた。初めて赤っ恥をかいた気さえした。
彼と自分ではまるで、何もかも違うのに。
「……意味が分からない」
「ははっ。君は正直だね。嘘がつけない」
「だから、わからないって!」
 言い放って拒絶したはずなのに、彼は簡単に俺の間合いに入り、その美しい顔を俺の肩に乗せ抱き着いた。
「さみしいんだろ。誰からも理解されなくて、誰からも拒絶されて、自分も受け入れられなくて。苦しいんだろ。わかるよ。俺も同類だ」
 彼はしっかりとした力で俺を抱きしめるとくぐもった声でこういう。
「生きていると、猛烈に、苛烈に、直情的に、心が焼け付いて、ぐちゃぐちゃに腐ってしまって、悲しいより苦しくなって、痛くて痛くて。腐った心の肉がふいに触られてあがる悲鳴が、うめいた音の波紋が、自分の耳に届いて。初めて、ああ、どうしようもなく、……死にたいって思うときがある」
 彼の思い切り吐いた切望の言葉に、視線をうろつかせる。
 何が正解か教えてほしい。泳がせて逃げるようにそらした視線は、誰にもあわせようとなんてしてくれない。
 雑踏と化す。確かにいるはずの人間の息遣いは消え、聞こえているはずの彼の言葉に触れるのをためらって、皆、背景に徹する。
 きっとこういうときの役割は、体がバラバラに砕けないように、壊れてしまわないように抱きしめて慰めることだと思う。見てみればわかる。青ざめた顔、冷や汗をかいて細かく震える指先、涙に滲んだ震える声。何も比較しても、彼は壊れそうなのだ。
 抱きしめて留めておかないといけない。わかっているのに、汗ばんだ肌が気持ち悪い、流れる汗が異様に冷たい。胃液がせりあがるようで気持ちが悪い。
 いいや。わかってる。
 嘘になるからダメなんだ。彼の孤独や不幸を丸ごと抱きしめて救ってあげられるほどの情なんてない。ただ圧倒されている。こちらが押しつぶされそうで怖がっているのに、抱きしめて一緒に悲しんであげたところで、嘘だと見抜かれる。救って……あげられない。
 勢いを増す雨粒の粗さがガラス窓にあたり流れていくのを憂鬱そうに眺めているその顔を俺は我に返ってひっぱたく。
 なんて酷い言葉だとなじった。何をそんな顔をして、なんて言葉を言い放つのか。
 けれど彼は表情一つ変えなかった。
「明日を望めなくなるほど、悲惨な人生を歩んでいる人間もいる。明日が来なければいいと泣きながら願って、明日が来るたび涙を流し、それでも死ぬことを許されない人間の気持ち、お前にはわかるのか?」
「わからない」
 本当にわからなかった。それだけしか本心じゃなかった。その感情の熱量があまりにも自分に似通っていて、同情と一緒に親近感を抱いた。
 俺はこいつと友達になりたいと思った。悲しいことを悲しいとはっきり言える。そのひたむきさに羨望を向ければ、彼は少し恥じたように視線を揺らし、俺の目をはっきり見据えた。
「山田は、人に恋をしたことがある?」
「ない」
 嘘だった。本当は恋心を抱く存在がいた。
 けれど、それを馬鹿正直に話すほど、彼に心を開いていないし。その質問が何を意図して発せられた言葉なのかわからなかった。彼に俺がどう見えているのかわかりようもなかったし、単に俺と一緒で泥人形に見えていないだけの違いしかないと思い込んでいたのだ。
 この話にはもう一人、登場人物がいる。
 俺が拒絶しないもう一人の友人、華乃子だ。華乃子はクラスの中心人物であり、俺の幼馴染である。彼女は俺がクラスで浮いた存在であることを気にかけ、人目を忍んでは積極的に俺に話しかけてくれる、優しい女子だった。
 目を細めては微笑んでくれる、彼女からはどこまでも優しく心配性の匂いがして、恋心を抱いていた。
 彼女はあまりにも容姿が美しく、劣情を抱かずにはいられない存在で、彼女がいるから俺はいつもみっともなかった。そう彼女こそが、この事件の被害者である。人体をバラバラにされ、モズの贄のように木に飾られた被害者である。
いいや、被害者というのは語弊があるかもしれない。彼女はこの事件のきっかけ、そして加害者であり、被害者だということ。
華乃子はいつも、俺が図書室で、一人でいる時に現れる。遠くから見つめる視線に気づき、声をかけると、恥ずかしそうに頬を染め、少しだけ視線を揺らがせてから、はにかんで見せる。
彼女はクラスの中心人物で、クラスでいる時は明るい人柄だ。けれど、それは仮の姿なのだと思う。美しい彼女の陰鬱な影。
 彼女の心を視認すると、いつも後ろに影を背負っている。とどのところ、彼女は愛される人柄を必死に演じ、薄暗い自身の本質をひた隠しにしているのだ。この時の俺は彼女の抱える影に気づきながら、それをただの演技だと侮っていた。
 それがのちに、彼女。強いては自分や彼も巻き込む事件に発展することを知らなかった。それよりも華乃子の明るさに反した臆病さが心地よかった。その臆病さは彼女の色白な肌も相まって淡く、儚く見えたのだ。
 彼女はどこまでも繊細で、俺の前でよく涙を見せた。怖いのだ。人が、人が自分を見るその目が針を刺すようで、恐ろしいのだと怯えて、俺にすがって泣く姿。
 目元が赤く熟れ、腫れた瞼でさえも、愛おしく庇護欲をかきたてられた。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
 どこまでも彼女が見せる姿は可憐で、隙がなく、美しさで人を魅了してやまない女でしかなかった。どこか自分には程遠い存在で、どこまでも純粋で淀みのないその眼底は、全てを見透かしていながら、俺だけを肯定する。
 俺は酔っていたのだ。彼女から向けられる情に。
 華乃子はどこまでも女でしかなく、縋ることを上手く使い、甘え上手で、ずる賢かった。けれど、俺はそれでよかった。大きな桜の下で、その花をめでながら散る間際までそばにいて、朽ちるその刹那さをも愛していたかった。
 花弁の散るその様ですら、愛おしく、朽ちて腐っていく姿すら、俺にはあまりに美麗にうつり、息をのむ。
 彼女が俺を利用しようが、そんなことはさして問題ではなかった。彼女がそばにいないことが俺にとっての問題だったのだ。
「たっくんは、きれいだね」
 華乃子は誰もいないところでは、俺をたっくんと呼んだ。
「タツキだよ。たっくんは恥ずかしい」
「たっくんはたっくんだよ」
 彼女の照れて赤くなる頬に優しく触れ、微笑んで見せると彼女は人目を気にしつつも抱き着いてくれる。そして力を籠め、ぎゅっと抱きしめてから俺の目を覗き込んで、俺の頬に触れるのだ。
「どうしてそんなにきれいなの」
「それ、よく言うけど。俺のどこがきれいなの?」
 彼女は視線をそらさないまま、その折れそうなほど細い指で頬を撫でる。
「……目。いつも見とれるの。底が見えるほど純粋で、汚れのない……。ううん。違う、たっくんは汚れないんだよ。永遠の純粋なの」
 あまりにも彼女がまっすぐ見据えて言うものだから、俺は頬を赤らめて照れてしまった。
「何言ってんの? 俺の目ってそんなに澄んでる? 恥ずかしいから、やめて」
 俺にしか知らない華乃子がいるように、きっと華乃子しか知らない俺がいたのかもしれない。
 華乃子は急に我に返ったように、はっとし、顔を赤らめて手を放す。
 そしてもう一度だけ視線を交わし、俺はそっと華乃子の髪に触れようとした瞬間、急に出てきた彼に手をつかまれた。
「そいつ……。触らない方がいいよ」
 突然出てきてつかまれた手に力が込められ、思わず顔をしかめる。
「痛い。離せよ。俺は華乃子の嫌がることなんてしてない」
 そういった瞬間、彼は俺の手を放してから、ぼやくように「違う」と否定した。
「違う! お前が汚れるんだよ。基山華乃子に触ると、お前が汚れる」
「はぁ?」
 わけがわからなくて、俺は思い切り手を振り払った。
 華乃子はおびえるように、彼から距離をとって俺の後ろに隠れた。俺の腕をつかむ手がカタカタと震え、尋常ではないほど怯えているのが分かった。
「あのさ。なんだっていいんだよ。華乃子なら、俺は。なんだっていいんだ。汚れていようが、猫かぶっていようが。彼女ならなんだっていいんだ」
 そういった瞬間、彼は俺の胸倉をつかんで言い放つ。
「恋してないんじゃなかったのかよ」
 そう責められた瞬間、俺はカッと頬が赤くなったのを感じた。なぜだかすごく恥をかいた気がしたのだ。
「どうでもいいだろ」
「どうでもよくない! お前はあいつのこと何も知らない。お願いだから、あいつと関わ」
 関わるな、そういおうとした瞬間だった。華乃子は走って図書室から出て行った。
「華乃子……」
 俺は咄嗟に彼女を追いかけようとしたけれど、彼は俺の手を掴んで離さなかった。
「なんでだよ! なんで華乃子につらく当たるんだよ」
思わず怒鳴ったその瞬間、彼が言い放った言葉に身じろいだ。
「あいつ、生臭いんだよ」
「は?」
「疑うなら調べてみればいい。血とか魚のさばいた内臓の匂いとか、その……精液の匂い、する……」
 思い当たることがあった。彼女は潔癖症なほどに、手を洗う。それはクラスのみんなが周知しているほど、誰が見ても明白なこと。
 それどころか、俺と会うときはいつも風呂上がりの匂いがしていた。せっけんだか、シャンプーだかの匂い。それは華乃子がきれい好きだからとか、水泳部でシャワー室をよく使うからだとか、そんな曖昧な理由で片付けていた。初めて背筋がぞわりと悪寒が走る。
 せっけんの匂いに交じってたまに香ってくる。変な……。
ああ、それでも――。
俺はどうでもよかったのだ。
「そんなこと、どうでも……いいよ」
 そうやって視線を逸らすと彼は、苛立ったように舌打ちした。
「友達になれると、思ったのに」
 切り離されて初めて気づくこともあるのだと、自覚する。そうか、俺は彼と友人になって気心の知れた親友になりたかったのかもしれない。
「心配してくれたのに。ごめん。それでも、華乃子を放ってはおけないんだ」
 彼は俺の言葉をどう受け取っただろうか。しばらく、沈黙が痛いほど続き、恐る恐る顔を上げて彼を見ると、彼は目に涙をためて音もたてずに、泣いていた。
「ごめん。なんで?」
「……はっ?」
 彼は怒ったように声を上げる。美しくそろえられた彼の理路整然とした姿とは程遠い、脆さが染み出て、動揺を隠し切れなかった。
「……なんで、泣いてんの?」
「山田が! 俺の心配を無視するからだろう」
 俺は記憶を巡らせても、どう考えても、涙を流して悔しがられるほどの関係性は彼と築けていないはずだった。図書室の窓から隙間風が入る。一瞬、身震いして思わず笑ってしまった。
「何が、そんなにおかしいんだよ」
「いや、だ、だって。お前。なんで俺のことそんなに心配してくれてんの」
 笑いをこらえながら、そういうと彼は俺の頬を思い切りつねってから言った。
「山田って、悪ぶっているけど、性根があまりに真っすぐで優しいからだよ」
「……ははっ、笑えない冗談だ」
 俺は切り捨てた。一瞬にして彼の厚意の優しさを無碍にした。
「……なんでそんなに悪ぶるの」
 彼の真っすぐ見据える目が、射貫くように俺を見る。だからこそ、俺は彼に誠実に答えなければならない。重く閉ざした口を開く。開けた瞬間、どろどろと腐敗したの土が口から零れ落ちた気がした。
「なぁ、お前には山田タツキがどう見える?」
 濁った眼をしていたと思う。口から泥があふれ出し、目からは汚水が流れている、そんなふうに見えたと思う。
「深月には俺がどう見える?」
「……山田もわかってるだろう。基山も俺も、山田も、人の心を視認できるって。そのうえでお前は聞いてるんだろう。基山も俺もお前が綺麗だっていうから、どう見えるのかって?」
ガラス窓に映り込んだ自分の姿を見た。あまりにも鋭利で擦れた目をした少年が、血だらけの手を隠しながら逃げているように見えた。
「……その手、基山と関係があるのか?」
 あの日から血が消えないで手のひらを汚しているのだ。震えながら、そっと隠すと殊の外上手に笑うことができた。
「この血は俺に心がある証拠なんだ。華乃子に抱いている愛情なんだ」
 彼は驚いたように目を見開いて、そして悲しく瞬きをしてから納得したように目を閉じた。
「……俺にはそれが、愛にはとても見えないけど」
 彼、深月 道彦のわずかな抵抗に思えるその言葉に俺は笑った。
「いいんだ。俺がそう決めたんだから」
 基山 華乃子がおかしいことなんて、最初から俺は知っていた。彼女は過去数回、俺を殺そうとしているんだから。

 幼少期の華乃子は自閉症を疑われるほどに、心を閉ざしていた。言葉も話さなければ、話しかけても反応もせず、ただの木偶人形のようで、生きているかも怪しい。
そんな少女だった。
 俺は幼馴染のよしみで、実の父に華乃子の面倒を見ろと押し付けられ、そんな華乃子としか一緒にいることを許されなかった。
華乃子はいつもぼんやりして、座り込み俯いては無表情で口をつぐむのがいつものことで、俺はそんな華乃子をうざったく思っているだけ。
 祖母の家で、フランス人形を見たとき。その精巧な作りに、その肌の変わらない質感に、そのまんまるに見開いただけの目に「ああ、華乃子そっくりだな」なんて思ったぐらいだ。
 生気のない、まるで今とは程遠い華乃子。あの時のことを思い返すと、ぞっと身震いする。
 俺は華乃子に興味はない反面、ひどく同情していた。彼女の表情はどこかしら、意図的に作らないようにしているように見えたから。
 感情をいらないと切り捨てている、投げやりさ。年端もいかない少女が、その感情をいらないと切り捨てるだけの、何かがあることには気づいてはいたのに。俺はそこに踏み込むだけの勇気などない。
 それでも何かおかしいと、自分の両親に訴えることはしていた。華乃子が訴え縋るような視線を俺に向けたとき、まるで責められている気がしたんだ。
 見殺しにするのかと、言われている気がしたんだ。罪悪感から突き動かされて訴えた行動だとしても、それは自分にとって途方もない勇気のいる行動だった。
けれど、そういう感情の機微に敏いガキは嫌われるものだ。何かを勘づいておかしいと訴えたところで、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと、拒絶される。事なかれ主義、自分さえよければ、周りなんてどうだっていい。
この世界に蔓延る慢性的な病。当時はそう見えていた。
 いつも言われるのは、子供が大人の事情に口を出すもんじゃない。そう言い放たれ、一線を引かれ、蔑ろにされるのが世の常で。自身だって面倒ごとはごめんな方だし、親のことを非難できるほど真っ当な奴でもないのだけど、俺は人の薄情さが疎ましくて嫌だった。
 誰かを助けるためだけに行動できる人間はどこにいるんだろう。少なくとも俺は違った。その薄情な自分がいつも許せなかった。そうやって言葉を失い、感情を凍らせ、うつろな目で華乃子が何を見て感じているのか、それを蔑ろにされ、涙を流すこともできなくなった彼女の、見えている世界を想像するだけで、頭がおかしくなりそうだった。
そんな葛藤を抱えていた、ある冬に転機を迎える。
その日は十年に一度の大雪だか、なんだかで、空一面が灰に染まり、埃のような雪で青い影ができていた。雪影の青は美しく世界を薄暗がりにして、ぼんやりと鈍るような色合いで景色を染め上げていた。
いつもとは違う純白と青い影の世界は、子供心をくすぐりワクワクして窓にへばりついていた。せっかくだし、雪だるまを作ろう。思い立ったら、体が動いていた。
俺自身、こんなに降る雪は珍しかったし、雪だるまを作ることも、この機会を逃せばもうないかもしれない。
急いで厚着をし、家を出ると華乃子も同じようにコートを着込んだ。
玄関には雪が厚みを増して積もっている。
俺らは言葉を交わすこともなく、雪をかき集めようと濡れないように腕を少しだけまくった。華乃子も同じようについてきて腕をめくったとき、俺は初めて見た。
華乃子の腕に縛ったような縄のあざができていることに。
 その瞬間、体中の毛が逆立ち、見当もつかないけど何をされているか考えた。頭の端が冷たくて考えがまとまらない。胸が悪くなり、吐きそうになった。
 華乃子はきょとんと何もわかっていない顔をしたまま、俺に手を引かれた。限界だった。俺は両親のもとに華乃子を連れていき、華乃子の腕をめくった。
 そして一言。
「薄情者……。これを見ても、まだ大人の事情とかいうつもりなのか? 大人の都合で子供が傷つかないといけないのかよ?」
 そういって叫んだ瞬間、父親にテーブルにあったグラスで頭を殴られた。ガラス片が散らばり、顔の肌を薄く幾度も切りつける。
思わず、血の出る頭部を抑え、頭がくらくらして膝をついて見上げた父の表情は影になり、見えなかった。
けれど、どうしようもなく、こいつはクズなのだと。
頭に血がのぼって、恐怖より怒りが勝った。怒りで手が震える。父はそれを見て、俺がもうこれ以上の口出しをしないと勝手に悟り、缶ピールを人差し指であけた。
華乃子の父は、うちの父の上司だったらしい。それもかなりのパワハラ気質の上司で、父の当時の精神状態はおかしかった。
 とはいえ、当時六歳の子供の頭をグラスが割れるほどに、殴るのはどう考えても異常で、それを見たエプロン姿の母は悲鳴を上げた。
 俺は頭を白黒させながら、割れたグラスの破片を握った。指の肉にガラス片が食い込む感触がしたけど、俺はどうでもよかった。痛かろうが、どうでもよかった。
「……父さんも、クズになるのかよ。俺たちを殴れば、それだけで済むと思ったら大間違いだ」と言い放ち、俺は強くガラス片を握って首に強くあてた。
「華乃子を助けないなら、俺はこれで死ぬ。助けろよ! 華乃子を助けろよ」
 そう怒鳴った瞬間、堰を切ったように華乃子は初めて泣いてみせた。
「うわぁぁ、たっくん、た、っくんあああっ!!」
 怒涛に押し寄せる、華乃子の涙に呆然とした。破裂音のような強烈な声、壊れそうなほどにその小さく震える体が限界だと叫ぶ姿。
痛々しい、を通し越して、は悲しくなった。どれだけの感情をこの小さな体に押し込めていたのだろう。あふれ出す洪水のような慟哭を浴びせられ、俺は自分の手のひらが震えてることに気づいた。
ああ、こんなにも華乃子の泣き声に俺は震えている。浅い呼吸を繰り返し、血まみれの手で抱きしめた華乃子は、壊れそうで泣きすがって、弱弱しいその細い肩が、可哀そうで愛おしかった。
「今までごめん。ごめんなさい。助けてあげられなくてごめん」
懇願のような声が響く。許してほしいと、縋るように懇願している。今まで見ないふりをして、黙認して、どうせどうにもならないと見殺しにして、ごめんなさいと、一緒になって涙を流した。
まるで目が傷口になったみたいに、涙が痛くてたまらなかった。その光景を見た母が我に返ったように、父に近寄り顔をひっぱたいた。それまで空気と化していた母が鬼の形相になり「離婚、します」とだけ言って俺と華乃子の手を引いて、車に向かった。
 父が後ろで何か言っていたけど、俺たちは振り返ることなく、後部座席に腰を下ろした瞬間、泥のように眠った。
 手のひらは、五針、頭は十針縫った。診断書を華乃子とともに書いてもらい、それを持ったまま、母は華乃子と俺を実家に預け、単身華乃子の家に乗り込んだそうだ。
 気が弱く、父のイエスマンだと思っていた母は、とんでもない鬼人になり、旧姓基山、当時の華乃子の母と手を組んで徹底的に法廷で戦ったそうだ。
 結果は勝訴。当時の俺が知っても何もよくわかっていなかったけど。
 それから華乃子はよく笑うようになった。頬を染め、幸せそうに顔を笑顔に変えて俺に微笑むようになった。
けれど、その頃から俺の手は赤く汚れて見えるようになった。人の心が視認できるようになっていた。華乃子の姿がぶれて見え、次第に唾液を垂れ流し、人食い物のように見る後ろの黒い影が華乃子を蝕んでいく様子が、わかるようになった。
俺はそれを見ないふりをした。何が、世の中に蔓延る事なかれ主義の慢性的な病だ。とっくに自身がそれに蝕まれ、悲しみに暮れるのはいつも自身の保身に走るその行為すべて。
華乃子は度々「たっくんはどうして嫌がらないの?」と聞く。そのたび背筋に冷たい汗を流し、彼女が自身の背後にいる黒い影に気づいているのだと怯えている。
きっと偽ったとしても無駄なんだと、白状し「怖い」と口にした。その刹那、彼女ははっとして目を見開き、そっと納得したように目を閉じた。
 たまに華乃子は俺をシャーペンで刺してきた。腹を刺されたときはさすがに死ぬかと思った。俺は学校を抜け出し、友人とふざけてシャーペンが浅く刺さった腹を病院で見てもらった。
 決して誰にされたかなんて言わずに。傷は浅くても痕は残った。華乃子は俺をずっと見張っている。多分許してないんだ。内心、彼女を受け入れない俺を、許せないんだと思う。母との関係が悪化したのも、その事件が積み重なった結果。
 泣きながらもう学校に行かないでと訴えられた。けれど、それをしてなんになるというのか。華乃子が怒るかもしれない。今度は家族にその毒牙が向くかもしれない。
 母の涙は華乃子を逆上させるかもしれない。そう思ったら、何もできなかった。逃げることも、立ち向かうことも、笑うことすらできなくなっていった。ある時、俺は下校途中、道路に突き飛ばされて事故にあった。大きな傷が腕に残り、華乃子は見舞いに来ると、けがを負ったはずの俺を見て「どうして綺麗なままなの?」とぼんやりとつぶやいた。
 優しい言葉なんか望んでいなかった。華乃子の気が済むようにすればいいとさえ思っていた。けれど、華乃子が何を言っているかわからなかった。
 鏡で見た俺は、泥人形に見えた。手は血で汚れ、口から泥があふれ、ぶくぶくと音を立てながらあふれ出でる泥を見て、言葉にできないおぞましさを感じた。
 これの、どこが綺麗なんだと。

「山田は気づいてるんだろう。基山、お前のこと殺そうとしてる」
深月は心底青ざめて、額から一滴汗を流し、気づいたようにそれを袖で拭う。その様子に俺は心配になり、思わず「大丈夫か?」と声をかけたが、それが余計に深月の癇に障ってしまった。
「大丈夫かだって? それを俺に言うのか。大丈夫じゃないのはどっちなんだよ」
 烈火のごとくまくしたてられて、俺は慌てたが深月はそれでも、俺を説得しようと話し出す。
「お前、後ろのあれ、見えててそれでも基山が好きだって言えるのか? お前本当に見た上で判断してるのか。よだれダラダラ垂らして、口元にはべったりと血がついて、……思い出しただけでぞっとするよ。この世のありとあらゆる負の感情を宿した化け物。基山の本体はあれだって、わかってんだろ」
 俺はその時初めて、本気で深月と自分が見えているものが同じなんだと痛感した。その上で俺は少し頭が痛くなる。
「きれいなものしか好きになっちゃいけないか?」
 そう言葉にした瞬間、彼は俺を真っすぐ見つめて、可哀想なほど情けない表情をした。眉を下げ、額にしわを寄せ、表情全体で「どうして」と伝えてくる。
「華乃子をきれいだなんて思ったことないよ。いや、見た目はきれいだと思う。華やかでどこまで行っても女で、俺にとっての異性で。……でも、あの子をきれいだと思ったことはないよ」
「だったらなんで!」
 珍しく、深月は感情的だった。いや、感傷的だったのかもしれない。
「深月は、きれいなものしか愛せない?」
 優しい声色で、穏やかに聞いてみる。泣きそうな表情のまま、深月は黙って首を縦に振った。それが酷く恥ずかしいことのように、頬を赤くして。
俺はそんな深月が、可哀想に思えて頭を乱暴に撫でた。その空間に秒針の音だけが響いている。誰かがさめざめと悲しむ感情の波紋が、静かに広がっていくようで。
それを悪くないと思う自分がいることが、不思議だった。サテンのような触れ心地の髪を疎ましく思いながら、俺は少しだけ救われていた。
「俺は華乃子がどれだけグロテスクなクリーチャーでも、肥溜めの中に落ちたとしても愛せるよ」
 それは罪悪を抱えた恋情に他ならない。愛というには歪んでいる。恋というにはあまりに痛々しい。それは同情にまみれた、執着で愛のなりそこない。
深月は本格的に嗚咽を出して泣き出した。
 とんでもない男らしい野太い声の嗚咽が響く。涙は恥でもないといわんばかりに、凛々しい顔をして男泣きする深月。
俺は仕方ないなと、ぼやいてティッシュを取り出して、ぬぐいだした。
「……世話好きかよ」
「ははっ」
 思わず笑うと、深月がまじめな顔をして言い放つ。
「なんで、基山追っかけないの?」
「……」
 少しため息をついてから言葉にして苦笑いする。
「華乃子には、俺以外にもそういうやつ。たくさんいるから」
 深月はもう泣きも笑いも、怒りもしなかった。図書室の椅子を引くとそこに俺に座るようにいい、俺の隣の椅子に腰を落としていう。
「もうさ。なんでとかどうしてとか、いちいち聞くのも疲れた。だから、お願いだから、全部わかるように説明しろよ。なんでそんなに互いが互いに縛られてんだよ」
「……言語化できるかわからない」
「いいよ、聞くよ」
 そう言い切る深月を見て俺はそっとため息をついた。
「前に聞いたよな。お前には俺がどう見える? って。もしお前と俺、見ているものが一緒だったとするなら、俺ってずっと華乃子に首絞められているように見えてるんだよなぁ? そして俺は血の付いた自分の手を大事そうに抱きしめてるように……見えてるんだよな?」
 深月は黙ったまま、視線をそらし頷いた。
「……俺、誇れるものがないんだ。勉強も運動も、何かに秀でたことなんかない。努力はしたつもりなんだ。でも羨むばかりで、優しさの一つもない。いつも僻んで、ねたんでばかり。だから、愛が綺麗に見えた。華乃子を守ったことだけが、自分の意味で価値になった。初めて自分のこと許せたんだよ。それなのに、結局、俺は華乃子を救えなかった」
 一呼吸置くと、俺は深月を見て悲しく微笑んだ。
「お前みたいな容姿に恵まれた奴にはわからんだろうな。どれだけの努力を重ねても並み程度。血反吐はいても、どれだけの研鑽と努力を重ねても、少しの努力で簡単にそれ以上の結果を叩き出すような人間が普通と言われて、その上にさらに天才がいて、何もかもを凌駕され、無理やり下を向かされる惨めさ。何をやっても無意味だと嘲笑される。初めて意味を与えられたのに、それすらまともに大事にできない。もう、……死んだっていいよ。生きていると、猛烈に、苛烈に、直情的に、心が焼け付いて、ぐちゃぐちゃに腐ってしまって……死にたいって思う、だっけ? あれ、俺もそうだよ。どんな理由や世間体なんてどうだっていいほど。死んでしまいたいぐらいは全部につぶされてる」
 深月は何も言わず、俯いたままだった。それでも俺は構わず続ける。
「いくら嫌っていようと、好きじゃなかろうと、華乃子もお前も、人に囲まれて敵意も向けられずに平然と生きてる。それだけでお前と俺には差があるんだよ」
 言い切ってしまった。きっとそれが大きく間違えてるとわかっているのに、その時初めて俺は自分以外の全ての人間の孤独を見下したんだ。
「俺とお前じゃ、違うんだよ」
 ぼやいた瞬間、深月は俺をひっぱたいた。
「自分だけが……。自分だけが酷い地獄の中にいると思うなよ! いっつもそうだよ、山田って。頼んでないのに自己犠牲して、頼んでないのに勝手に僻んで、人の苦しみとか見ようとしなくて、ただ自分が我慢して受け入れればみんな幸せになれるって思いながら……、心の底では助けてほしいくせに、嫌って距離を置く。——わがままだよ。お前を嫌えない人間だってここにいるのに」
 そう深月は言って俺の胸倉をつかんだ。
「初めてだったんだ」
「……えっ?」
 ここまでの感情をぶつけられて、あまりにも優しい声色で言われて目を白黒させた。
「お前、俺に自分がどう見えているのか聞いたよな? 答えてやるよ。お前は唯一、俺の目からはまともな人の形をした生き物に見える。他はみんな、舌が二枚も三枚もあるし、目に泥が詰まっているし、馬鹿だし、自分本位だし、他人よりみんな自分の保身に走る怪物だ。でも、お前は違った。初めてまともな人の形をした……、いいや。俺にとっての初めての人間だったんだよ」
 そういわれて深月が涙をボロボロ流しながら、言葉にした。
「みんなが俺をどういう目で見てるかわかるか? あいつら俺は装飾品みたいに思ってんだぜ。見た目がいいとみんなそういう感じに思えちゃうのかな。母親、父親、みんな俺を変な目で見るんだ。そして憐れんで距離を置こうとする。比べらるのが嫌なんだって。心の底じゃ、俺を愛しちゃいない。誰も俺をまともに見ない。俺の心なんて置き去りで、いつも誰より優越感を得たい、誰より人より上に立ちたいって。そういう目で俺のことを見てるんだ」
 深月はそういって涙をはらはら散らせる。泣くことにためらいのないその姿に、いいや、もう自己保身に走って涙を我慢することすら考えもしない、その心に心から謝罪した。
 深月は静かに体中を傷だらけにされている。人の視線が鋭利なピアノ線となり、幾重にも絡みついて動くたびに彼の体を縛り、傷をつけるようで。
 その痛みに笑いながら耐える、彼の眼底に映る感情は、悲しみ以外の何物でもない。
間違えてしまったと自覚してから、俺は初めて同情で友人を抱きしめた。
「……ごめん。俺が悪かった。気持ちも見ないで、勝手に決めつけて、お前を見ようとしてなかった。俺、お前のこと嘘で固められてやすりに見えてた。人に攻撃性を向けているのに、外側では笑ってる、怖いやつだって思ってた。でもそれは、自分を懸命に守ろうとしていただけなんだな。……ごめん、俺が浅はかだった。わかろうとしてなかった。見たくないから目に泥を詰めていただけだったんだ。知ろうとしないことが、こんなに愚かなことだって、気づけなかった。ごめん。……ごめん」
 そういって俺は深月を抱きしめて、二人して泣いた。その時の深月の目には泥なんか詰まってなかった。そうやって深月は苦しんで、苦しんで、それでも寂しくてやすりの肌でも触れて欲しがった。
 どうして俺は気づけなかったんだろう。こいつの孤独に、そして優しさに、愛情に。目をそらし続けてきたんだろう。
「ごめん……、深月。ごめん……」 
 そうやって俺たちは初めて心の内を話し、生まれて初めての親友になった。でもきっと、それが華乃子には許せなかったんだろう。

 事件は一月に起こった。年明けを迎え、年始の登校日の放課後。
 図書司書の先生は俺に鍵を預け、先に用事があると過で図書室から出て行った。一人ぼっちの図書室で、芥川龍之介の歯車を読んでいた。
 歯車がはじけ飛んだ狂った物語に、何かうすら寒いものを感じつつ、ページを読む手が止まらずにいた。
「なぁ、お前って山田?」
 そう話しかけられ、振り返った。そこには知らない筋肉質な男が真っ黒の目をして立っていた。ぞくりと悪寒が肌に伝わる。
 こいつかみ合うはずの歯車がない。肌に伝わるはじけ飛んだ常識のない化け物。倫理も感情も置き去りにされ、そこには欲求を満たすためだけの獣がいる。
それは、華乃子とも、深月とも違って、べたべたと触れられたくない心の隙間に入り込んで、首を絞める悪漢でしかなく、酷い嫌悪を感じた。
「華乃子ってわかる? あいつ、お前のことが好きなんだって」
急に口元を押さえつけられながら、床に頭を打ち付けられた。
それでも、どこかで自分は女性でもないから、暴力を振るわれるだけなのだと高を括っていた。侮っていた。だから俺はまだその時点では気丈に振舞えていたんだ。
「俺は華乃子の言うこと、よくわからないんだけど。同じところまで落ちてほしいんだって」
 そう男が言った瞬間、俺のベルトに手をかけた。その瞬間血の気が失せた。必死に抵抗してくぐもった声をだし、もがき暴れた。それを見た男が俺の口を押えていた手をどけた。
「なにを……するんだよ……」
 震える声が情けなくて、涙がにじんだ。男は答えることなく、へらへら笑うだけ。
そして思い出したくもない記憶ができあがった。
 でもそうだ。
華乃子はきっと、俺の浅はかな存在価値を、華乃子がどんな目にあって、どんな苦しみを抱いているのか知ろうともせず、ただ自分の価値に依存して、彼女に依存していた俺を――憎んでいたんだと気付いたんだ。
 体を欲望で貫かれたとき、華乃子のことだけを想った。
その時に初めて彼女がどんな気持ちで俺を見て、その後の俺をどういう目で見ていたのか分かった。子供のように泣きじゃくりながら、揺さぶられる体を華乃子にすり替えて、彼女の気持ちを追体験している。
悍ましいさと惨めさと、自分の情けなさが刃物になり、首に突き付けられている。
誰にも理解されたくない悲しみであるのと同時に、ずっと誰かに救われたがっていた。
心の傷に触れないでほしいのに、みっともなく縋る心を捨てきれずにいた。
涙はいくらでも出た。いつもそうだ、俺は誰の心も見えるだけで知ろうとなんてしてこなかった。獣のような性交が終わると、唸り声をあげた男が白濁したものをだし、俺の血が混じった赤と白が散乱する衣服をまとった。
「楽しかったよ。またね」
 そういわれてから、思わず口から胃液がこみ上げた。その場で嘔吐し、喉がひりひりと焼け爛れていくように痛んだ。青紫の空と血のような赤が混じった空の、断末魔みたいな光が痛く感じる。
「なにも、……知ろうとなんかしてこなかったんだ……」
 俯いて吐いた胃液の水たまりに、落ちたのは涙だった。
「たっくん……」
 いつの間に現れたか、わからないけど華乃子はそこにいた。赤い光に照らされた彼女は延々と涙を流して、俺を見ていた。汚れのない肌のはずだった。華乃子の体は、たくさんの手形に埋め尽くされ、その手形が彼女の首を絞め続けていた。
「たっくん……、ねぇどうして汚れていないの」
心底悲しい表情をして、張り裂けそうな悲痛な目元は涙を流していた。華乃子は泣きじゃくって、汚れた俺を抱きしめる。俺も何も言わず華乃子を抱きしめた。
「どうして……何も言わないの」
「……華乃子が、したようにすればいいよ。もう、俺が悪かったから。華乃子はもう、苦しまなくていいから」
 そうやって夜闇に染まっていく図書室で、華乃子と二人気が済むまで泣きあった。本棚に背を向けて泣きながら華乃子は言う。
「もう、無理かもしれない」
「じゃ、一緒に死のう」
 真っ暗闇の中、月明かりだけが図書室に差し込んでいた。華乃子が否定してくれればよかったんだ。そうすれば後に引き返せた。
 けれど華乃子は嬉しそうに頬を染めて、微笑んでから「ありがとう」とだけ言ったんだ。そこから先のことはあまり覚えていない。
 気が付いたら華乃子の首を絞めていた、華乃子は穏やかとは言い難い表情で苦しんでいたけど、しきりに何かを俺に伝えようとしていた。
 ……彼女がこと切れてから、彼女が何かを握りしめていたことに気づき、死後硬直が始まる前の弛緩した手から、握っているメモを奪った。
「たっくん、好き」
 メモを見て、華乃子は最初から俺に殺されたがっていたこと。自分が俺に殺されること、そしてその言葉を生きている間にとても言えなかったことを理解して、泣き叫んだ。慟哭という言葉でも足りない咆哮、苦しくて苦しくて、罪の意識よりなによりも、こうすることでしか彼女を救えなかった。
 彼女からすら、自分を救ってあげられなかったことを悔やんだ。本当は知ってたんだ。華乃子が俺を孤立させようとしていることも。家族との仲がぎくしゃくするように、母に何かを吹き込んでいることも。
 全部知ってたけど、俺は華乃子が好きだった。華乃子がどれほど汚くてもよかった。どんな醜い心を持っていたとしても、そんなことはどうだってよかった。
 俺に向ける赤らんだ頬と幸せそうな顔を見れるだけで、それだけでよかったんだ。大それたことかもしれない、そんな言葉二度と口に出せないかもしれない。それでも、愛していたんだ。

 そこからが、痛くてつらい永遠の始まりだ。華乃子を殺してから、俺は正気を保っていられなかった。
 本当は殺すつもりなんてなかった。一緒に死ぬのが嫌だと言ってほしかった。一緒に、生きてどんな苦しみでも、一緒に背負おうって言いたかった。けれど、もう無理だとあの瞬間悟って、一緒の場所に行けるならと。
 首を絞める手を、緩めることをしなかった。
 涙がこんなに濁流のように流れると思っていなかった。けれど反面、心は水面のように静かだった。今から行くから、もう寂しくないから。もうすぐだから。
 そうやって俺は立ち上がると、図書室を出た。屋上までの階段をゆっくりゆっくり上っていく。薄暗い廊下の片隅に、閉鎖するようにたくさんの荷物が置かれていたのを、俺は一つずつ丁寧に音を立てないようにどかした。
 少しずつドアノブが見えてきて、全てをどかし終わったあとにドアノブに手をかけた。ドアノブは開かない。ああ、そうか、鍵が必要なんだ。
 その時、ようやく屋上では死ねないと気付いた。
「おい!」
 背後から声がした。鋭い怒号が飛んできて、矢継ぎ早に何か言葉をかけられる。けれど、おかしいな。言葉がわからなかった。
 この人は誰だろう。誰かわからないが、必死に何かを俺に言っている。
 感覚が遠い、しびれるような脳が白に埋め尽くされる感覚。体が浮いているような、それとも沈んでいるような、そんな感覚がぬぐえない。
 その瞬間、思い切り頬を殴りつけられた。
「しっかりしろよ。何があったんだよ」
 その瞬間、感覚が戻った。
「あっ……」
 目の前には深月がいた。
「深月……、俺……」
 なぜだか、彼を見た瞬間、自分の頬に流れていた涙を自覚した。ああ、ずっと涙を流していたことにも気づかなかったのか。
「俺。……華乃子、ころした」
 涙でぐちゃぐちゃになった視界がぼやけて、廊下にぼたぼたと雫が落ちていくのを見て、自分がもう治りようのないぐらい、壊れてしまったんだと悟った。
 深月は何も言わず、ため息をついた。
「だから、あいつとは関わるなって言ったんだよ」
 諫めるでも、失望するでもなく言い放った深月は、俺の首に思い切り噛みついた。意味が分からなくて泣きながら、されるがままだった。
首から血が流れる。痛みを感じているはずなのに、痛いのがわからなかった。
「なぁ、山田。俺、お前のこと好きなの知ってた? 親友とかじゃなく、恋愛的な意味で、お前のこと好きなの、……知ってた?」
 俺は深月を見たまま、固まってしまい、何を考えているかすらわからなかった。
「死なないでよ。俺が何もかも全部かぶるから、死なないでよ。お願いだから」
 そういわれ、深月に抱きしめられてからの記憶はない。
 気が付くと、ベッドの上だった。
「蛍光灯……」
 天井につけられた蛍光灯を見て、ぼんやりと呟くと母親に声をかけられた。
「タツキ、大丈夫?」
 優しい声だった。優しい目元を細ませて、涙をにじませていた。
「なに……が?」
 母親は困ったように笑ってゆっくり言った。
「全部、だよ」
 そういわれた瞬間、涙がぶわっとあふれてうめくように声が出た。それが涙声は、みっともなく部屋に響いてしきりに俺は華乃子にごめんなさいと誤っていた。
「……深月は? 深月はどうなったの?」
 急に我に返り、母に尋ねると母は黙ったままその手紙と新聞記事を俺に寄こした。

新聞記事には、モズの贄バラバラ殺人事件の詳細が載っていた。
少年Aは同学年の女児、基木 華乃子を暴行した後、殺害。その後遺体をバラバラにし、学校の裏山の木にバラバラにした遺体を括りつけた。
その際、少年Aは同学年の男児に見つかり、その男児を暴行した後、薬指を切断し逃走。警察に確保され、他に共犯がいたことを告白し――留置所にてタオルで首を吊り。
そこまで見て俺は自分の薬指がないことと、少年Aが誰かを思い知った。
「安心して。深月くんは自殺したわ」
震えが止まらないのに、俺は深月の遺書を握ったまま離せなかった。
「読まない方がいいと思ったの。でも、あなたと深月くんは親友だったのでしょう?」
 俺はがくがく震える自身を押さえつけて、彼の遺書を読んだ。

『生まれたくなかった。きっと、それだけしか本心じゃない。
不意にすれ違う人間の目に、ふと気づく。その眼窩には、悪臭を放つ泥が詰まっている。異常さを持つものにしか、そうは見えないだろう。自分はどこか異質で、異常で、もの見え方がおかしく、いつも見えている世界がおかしかった。
頭のおかしい人間の戯言をして聞いてほしい。
昔から人の心を視覚として認知できる。そういった能力があった。だからか、それを見て嘔吐し、その悪臭に鼻を抑え震える俺がほかの人には、どう見えたんだろうね。
正直に、誰かに打ち明けたところで、嘘つき呼ばわりされるだけ。
余計に人が寄り付かなくなる。だから、俺は狂うことでしか、正気を保てなかった。
 俺が正しいと思う愛を、人は正気の沙汰ではないという。それでも。俺にとってそれは普通のことで自分でいられるナチュラルな感覚だった。
基山華乃子を殺したのは、俺です。俺は彼女に、淡い恋心を抱いていました。それでも彼女を愛する反面、嫌いでたまらなかったのです。
 だから彼女の遺体をバラバラにし、モズのように遺体を木に縛り付けた。殺すことでしか、彼女に自分の好意を伝えられなかった。憎しみと恋愛のはざまで、どうしていいかわからず凶行に走ってしまった。
まぎれもなく彼女を殺したのは俺です。
 そしてこの事件にはもう一人の俺の同類がいるということ。
 普通と違うこと、擬態しなければ社会になじめないこと。そのことに俺は少しずつタカが外れていくしかなかった。
 一人がさみしく、共感が俺たちを普通の枠から外すことに歯止めをなくしたこと。
 彼は俺よりとてもさみしがり屋だから、しっかり彼もこちらに送ってください。俺が言えることは、ただそれだけです』
この遺書を読んで、はっきりと俺の親友が何をしたかったか、その意図が分かった。
 その一文で、その愛という言葉で、全部悟った。
罪をかぶったんだ。そして、俺に暴行を働いた男を共犯として捕まえようとしているのか。俺があの男に犯されたことなど、病院に運ばれたのなら調べはついているはず。それなら、俺を共犯というよりは、あの男を共犯と考えるのが普通だろう。
そして自殺した。何もかもをうやむやにするために?
華乃子の遺体をばらして木に括りつけたのだって、常軌をいしているようで、俺の痕跡を消そうとしてのことだろう。
野生動物に華乃子の遺体を食わせて、うやむやにさせるためだ。そしてここまでした俺を裏切るなと、俺から死ぬことを奪った。

「俺が正しいと思う愛を、人は正気の沙汰ではないという」

その一文しか、きっと本心じゃない。
俺にどんな類の愛情を抱いていたかなんて、そんなことはどうでもよかった。卑怯だろ。俺は涙が止まらなかった。どうしてこんなことをしてまで、俺を生かそうとしたんだよと。涙が止まらなくて、奪われた薬指が痛くてたまらなかった。
きっとこれから後悔しかしない。
幸せになんかなれない。お前が泣いて拒絶した世界で、華乃子もお前もいない世界で、どうして俺だけが生きてるのか、どうして生かされたのか。
永遠の地獄の中に閉じ込められてしまった。それでも、本当に最後にきれいなものを見せつけられた気がして、涙が止まらなかったんだ。


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