ウォレス・コレクション

 ジョン・レノンがイギリス人の妻を去り、日本人前衛芸術家のオノ・ヨーコと結婚した時、”ビートルズのジョン”を愛していたイギリス人は「魔女」ヨーコを呪い、レノンの心変わりを責め続けた。こうして、レノン夫妻はついにイギリスを離れてNYで暮らすに至ったのだが、オノ・ヨーコは自叙伝で、そのときのことを、二人の出会いはレノンが(大衆音楽の大スターでありながら)政治や前衛芸術に関心を持ち始めていたときのことであり、アーティスト同士としても惹かれあう必然があったことに触れながら、イギリスの人々は、なぜジョンがオノ・ヨーコという人間と結婚したのかどうしても理解できなかったのだとしていた。ビートルズ時代を思えばだいぶリクツっぽいにしても、彼自身が歌いたかったのであろうことを歌いはじめたジョン・レノンは凶弾に倒れるまでいくつもの名曲を遺したし、そこにはヨーコの存在がある。そして、訪れる友達もない疎開先で、お相手せよと言われてきた同い年くらいの娘に「お嬢様、何をして遊びましょう?」と尋ねられ、鼻白んで一人木の上で空を見上げていた旧安田財閥につらなる深窓の令嬢は、彼女自身が社会とどう関わるか、という問題を深く理解したパートナーをようやく得たのだった。

 二人の関係が理解され、受けいれられるのが難しかったのは、一見イギリスの大衆社会の愚かしさや格差のなかですっかり根づいた偏見のせいや、それを思いやったとは思えないオノ・ヨーコの逸脱ぶりのせいばかりにも見えるが、左派ガーディアン紙が絶賛していた、という理由でふらりと見に行った演劇が、たしかにレノンの音楽がたてつづけに流れてくるが、どうにもリクツっぽく、ちっとも面白くなかったのに呆然としながら、ひとつはっきりと気づいたのは、ビートルズの歌詞を何かのカルトの予言のように読もうとしたり、反戦運動に関わってからのレノンばかり称賛する、ヒッピー・ムーヴメントに呼応したイギリスのインテリというのは確かにいるのだということだった。

 彼らはヨーコがジョンに感謝と敬愛をささげてやまなかった、彼の音楽の大衆に訴えかける力より、むしろ、自分達にしか理解できないジョンを追い求める人達でもある。それでも自分達は大衆の側にあって、階級闘争を支援しているのだと固く信じていたりする。私はブレイディ・みかこさんは、コービンのような社会主義者が英労働党の中枢から追われようと、読まれていい人だとは思っているが、彼女が「紅茶と女王」と「パンクな英国」を対立させたがり、執拗なまでにキャメロンへの嫌悪感を表明するのは、ヘンなクスリに酔って麻痺している日本人の英国観を、自分が持ち込んだドラッグで”落としてやる”といわんばかりの、一種の投げやりな荒療治であって、ああ、これ”連中”のだよなあ、これ、とも思うのである。

 ”あの連中の”、という頭でっかちを、労働階級出身者自身がバカにしきっている例は、アラン・シリトーの短編にある、自分は社会を改善するのだ、との信念から、荒くれ男の工場労働者のもとに嫁いできた社会主義者の女性が、そのヤワな育ちもあって耐えられなくなって逃げかえった、という話にも見てとれる。「あの女はめそめそ泣いてばかりいた」、なのである。私が見てきた左寄りの学生にしても、ハメを外したようで、結局は家の中をきちんと片付けたら、揃いのマグカップで、刈りたての芝生に出したテーブルでお茶を飲む、という生活に落ち着くんじゃないかと思う…大方はね。

 そんなわけで、EU離脱をめぐる議論で露わになった社会の分断、じたいは、ブレイディ氏の読みで説明がつきそうだったが、しかし、当初コロナをなめきっていたジョンソン首相は自身コロナに感染し、復帰して、歴史的にはほんらい英労働党の大手柄のひとつであるNHS(国民皆保険制度)を絶賛した。英保守党の方針は”有事には与党”という、政治学のほぼ鉄則な状況に依存しすぎることなく、ますます労働者寄りのアピールを強めたために、労働党はこのままだと巻き返せない。波乱は、あるいはスコットランド独立運動あたりから起こって、ジョンソンの欺瞞を露わにするかも知れないが。

 日本でも拡大する格差、コロナショックからのK字回復といった問題に、”階級闘争”の概念を持ちだす研究者もいるが、私はリクツの上での”闘争”には関心がない。イギリスはいまや、あきらかにお互いを締めだすかたちで生活しているきらいがある。富裕層が雇う家政婦は、『秘密の花園』のお屋敷でそうであるように、ヨークシャー方言しか話せない地元の村娘ではなく、安い賃金でよく働く外国人だ。

 ローカルを外国人労働者を対立させる考えでは、賃金を下方に抑える圧力を外国人のせいになっているが、Good morning!と声をかけても、自分に話しかけられているとは思わず、意味も知らないまま、ゴミの回収で顔を真っ赤にして働いているのは一目で外国人だとわかる若い男で、暑いさなかに古いチキンをそのままダストビンに放り込んで、ウジをわかせている学生達は、彼らが来る頃にはまだ寝ている。捨てた方は、彼を補佐している、年とって前歯の欠けた痩せっぽっちの老人がダストビンの臭いに顔をしかめて悪態をつくのを見ることも、Thank youを言うことさえない。イギリスは、ほんらいはこのひと声がけが実に自然な社会で、サービスだから黙っていていい、ということがまずない。たとえスーパーマーケットでも、制服を着た店員は、ひとりひとりの人に見えているんだろうとも思う。

 だが、全く接点がなければ、話は別である。コミュニティ、ではなくて、システムなのだ。余計な音声入力は要らない。

  

 ただ、お偉いへの反発、反骨、というのはイギリスにあっては、時に過激なかたちをとるのはほんとうのことだ。キャサリン妃のウェディングドレスは、アレクサンダー・マックィーンのデザイナーのものだった。ブランドを立ち上げたアレクサンダー・マックィーン氏自身はすでに鬼籍に入っていたが、彼がサヴィル・ロウの高級紳士服の店で修業していた時には、顧客のチャールズ皇太子の背広の芯にこっそり悪態を書きなぐったままで縫い入れたそうだ。

 パンクといえば、パンクの代名詞だった、ヴィヴィアン・ウェストウッドも、いまや称号を授与されているが、野心も反抗心も人一倍だった、専門学校の貧乏学生だった頃、彼女が通いつめたのは、ロンドンの繁華街、オックスフォードストリートから一本入ったメリルボーン地区にある国立美術館、ウォレス・コレクションだったという。19世紀にウォレス氏の未亡人がコレクションごと邸宅を政府に寄贈したものだ。私も初めてロンドンに滞在した時、ホテルにいちばん近かったせいもあって何度か行った美術館だが、ヴィヴィアン・ウェストウッドが絶賛するように、絵やインテリアが、こういう環境で、こういうふうに楽しまれていたのだろうと想像するにはいちばんいい美術館だろうとも思う。そして…入場は無料である。

 私が留学していた先も、ヴィクトリア期に一代で財をなした富豪のコレクションの”ピクチャーギャラリー”が礼拝堂に隣接していたが、学会の打ち上げで、そこで絵を鑑賞しながらワインを傾けている時に、こちらのスタッフが、実は財政難で、ここにある絵も売りに出されそうになったことはある、と言ったら、いかにも育ちのよさそうなゲストスピーカーや他大の研究者が「いやいや、絵というのはもともと飾られていた環境から引き離されると、輝きが減じるものですよ」と言い、建物ごと、相当維持費を食っているであろうそのホールを褒めそやした。ふうん、そんなもんか、とも思って聞いていたが、やがて、友達の韓国人が給仕としておつまみを運んでいるのを見つけて、するっとそちらに移動して声をかけた。えらくなるなら飲み会を断らないだけでなく、トクになりそうな人のそばにいた方がいいにきまっている。しかし、ピクチャーギャラリーの絵の話ももう終わりだった。それに、名画と、それがもともと飾られていた環境が完全に保全されているのは、ロンドンであれば、なんといってもウォレス・コレクションだろう。

 そこで、いまでも忘れられないほど素敵な絵だと思ったのが、フラゴナールの「ぶらんこ」だったのだが、昨日それが、NHKの”ヘイ、モンジュ”という番組を見ていた時に、詳しく解説されていた。ゲストは峯岸みなみで、西洋絵画にまるで基礎知識がないところから、ほんとうの愛の具現化をそこに見出す、という流れだった。

 「ぶらんこ」には、愛欲のシンボルであるキューピッドが幾つか描きこまれているが、峯岸みなみが気づいた通り、ひとつは「シィっ」と指をたてて口にあてており、別のキューピッド達も心配そうにして、薄暗い森にふわりと一輪咲いた薔薇の花のような貴婦人を見守っている。「え、これ不倫ですか?」と峯岸みなみがきょとんと尋ねる。そう、ブランコを押した、奥にいる年老いた男が夫だ。晴れ晴れとした笑顔の若い女性は、ブランコが押し出された先にいる、若い男を見下ろし、彼女のミュールはその男にむかって投げ出されている。この足先をひっかけるだけの、脱げやすい靴も、勿論シンボルだ。

 当時の貴族階級は、財産や家格だけで結婚相手を決めたから、愛なんて結婚にとって重要な要素ではなかった。「だからこの笑顔は、ようやく本当の愛を見つけた表情かも知れないんですよ」とモンジュはささやく。なにも、この子を二度目の丸坊主に駆りたてることもあるまいに、と思って見ていたが、とにかくこの絵はバラのトゲみたいな象徴がいっぱいなのだった。

 だが、私がそこでいちばん気になったことは、番組ではなく、やはり若い頃この絵に心酔したらしいヴィヴィアン・ウェストウッド自身が下の動画でずばりと言ってのけている。薔薇の幾重にも重なる花びらのように、スカートの下のペチコートが隠しているが、「当時の女性はニッカ―(パンティ)を履いてないのよ」。

 ヴィクトリア・ベッカムが「もし一枚だけ服を持って逃げ出さなければいけなくなったら、何を着る?」と女性誌の質問で聞かれて「ニッカ―!」と答えていた。まさに、その名に恥じないヴィクトリアン、さすがは貞節に重きをおく英国人女性だ、と言いたくもなる。

 ぶらんこの花は、しかし、開ききったところで、また老いた夫の方に戻っていく。シンデレラのように、片方の靴だけ、男のもとに残して。


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