Jack the Ripper

 ”切り裂きジャック”の正体がDNA解析から特定されたのは、というニュースが日本でも報じられたのは、2018年のことだ。だが、ポーランド人理髪師だという話が、EU離脱の引き金となった、東欧系の労働者が半ば定着しつつあったことへの反発と重なっているようで、私は眉唾だと思っている。数ある説のなかでも、ロンドン警察に圧をかけられる地位があったのではないかとみる人はけっこう多く、またそうでないとロンドン市民の不安がパニック寸前になっているなかで、厳重な警戒の隙を突いて繰り返し残忍な娼婦殺しに及んだことに説明がつきづらい。理髪師は、なるほどカミソリを上手にあててヒゲを剃るのは上手いだろうが、人間の内臓の位置を正確に知らないと、上着の上から切り裂いて中身をまたたくまに持ち去ることができない。医師説も、だから根強くある。理髪師、というのは、今でも移民や有色人種が多い職業で、そういうニュースが執拗に報じられたことは、巧みな煽動ではないかとさえ思われ、人々がどんなモンスターに怯えているのかを推察するには十分なゴシップだった。

 切り裂きジャックは、シャーロック・ホームズと対で覚えるといい、と、教養課程の英語の先生が言っていた。かたや実際にあった猟奇的連続殺人事件であり、かたや紳士淑女の鑑賞に耐えるフィクションではあるが、それは全く同時代の、濃霧のロンドンという大都会を背景にしている。娼婦に的を絞った連続殺人は、その闇の部分だとも言える。そしてその英語の授業で、いろんな資料を読まされたのだが、私がへええ、と思ったのは、ヴィクトリア時代の娼婦達が、ペチコートを何枚も何枚も重ねていたことだ。その上に上着が何枚もあるのだから、よほど鋭利な刃物で、それも切り裂き慣れていないと、声も出させずに一瞬で殺害するなんてとても無理だろう。ヴィクトリア時代というのは、古典古代の女神たちの彫像でしか女性の裸体を見たことのなかった上流階級の青年が、新婚の床で妻となった女性の陰毛を見て気分が悪くなってしまったり、ピアノの足にまでカバーをかけるといった、極端に潔癖な貞節観念に基づいて性的なものを遠ざけていた。

 その一方で、しかし大都会では貧困ゆえに数多の娼婦達が街角に立ってもいた。その、いわばロンドンの闇のなかの存在だった女性達も、しかし、ペチコートは重ねていたというのだ。粋筋がファッションリーダーを兼ねるのはいずこにも見られる話で、彼女達もまたそうだったのかも知れないが。

 娼婦ばかりをターゲットにしたことから、ジャック・ザ・リパーには娼婦を深く憎む理由が在ったのではないか、という説もあるが、彼からの犯行声明と言われるものさえ本物かどうかの立証は難しく、何が動機なのかははっきりしていない。一方、先日、立川で風俗嬢を計七十か所以上もめった刺しにした十九歳の少年は「あんな職業の女は、死んだっていい」と語ったそうだ。彼が逮捕されたのは、ヴィクトリア時代にはなかった監視カメラをたどることが可能だっただけでなく、めった刺しで自分の手にも深手を負っていたせいで、ジャック・ザ・リパーとは対照的に、彼自身の血痕と言われるものが血だまりになって遺されることになった。

 compassionateという言葉がある。「ダイアナ妃は、王族でも、困った人、病んだ人への共感力がとても豊かな人だった」というようなときにこの言葉が賛辞として使われていた。逆に、EU離脱をめぐる国民投票では、残留派は、いったいなんのためにEUに加盟するのか、訝しいままだった人達に対して、全くpassionのない、情熱も共感もない理詰めのことしか言わなかった、とキャンペーン中言われていて、おどけたファラージの煽動が可笑しくて、座布団一枚、くらいのつもりで投票した人さえいたかも知れない。残留は、セレブやおえらいさんが支持することで、私たちの生活の日々の悩みからはEUは遠すぎる。高学歴の多い残留派がそんな印象を与えていたのは、でも確かに、生活空間が、社会が、ほんとうにシェアされているかどうか、疑わしい、という思いが爆発したかたちになった。

 その疑わしさは、イギリスの階級社会の弊害そのものだとも言える。むかしほどクラースについてうるさく言う人はいないにしても、なくなったわけでもない。ジャック・ザ・リパーは何者なのか、と考える人達は、それが娼婦にも相手にされない薄汚い浮浪者や下級労働者だと思うことは難しいらしい。

 いきなり致命傷を与え、そして瞬く間に臓器持ち去るというジャック・ザ・リパーの殺害方法は、情け容赦も人格への敬意もなく、そもそも同じ人間としての共感が全く欠如した猟奇的なものだ。さらによほど特殊な訓練を受けた人間であることもまた確かなのである。かなりの上流階級の人間の仕業ではないか、と言われ続けてきた所以でもある。

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 60年代からの若者文化の台頭は、ヴィクトリア的英国への挑戦でもあったが、いまだに生活習慣として彼らがヴィクトリア時代から受け継いでいるものもまた多くある。性的なものについても、大きく変わったようで、「もはや存在しない」と思われていた、ダイアナ・スペンサーという処女の貴族令嬢の登場に全英が大騒ぎになった。あれは、当時のサッチャー首相の、ヴィクトリア的英国の国威復興、という至上命題とも一致していたせいもおおいにあるが、ポジティヴな価値とされたのは言うまでもない。
 
 いまでも、特に家庭の子育ての段階では、ヴィクトリア的な躾けもよく見られるのではないかと思う。たとえば、日本のように父親が娘を、あるいは母親が息子を風呂にいれるのは「だいたい、幾つくらいまでなんだろう」と駐在の奥さんが静かに考えこんでいたことがある。ホームステイ先で七つになるかならないかの男の子が、もう寝なさい、と言われ、We are not washed yet! つまり、お風呂にいれてよ、と騒いでいたが、それくらいだとお母さんが着衣のまま、腕まくりして洗ってあげるのだ。

 しかし、そのくらいの年齢の日本の子どもであれば、女の子でも、まだ無邪気にお父さんと同じ湯船で、ひとーつ、ふたーつ、と、十数えて体が温まるまでは出ちゃダメだよ、と言われていることが多いのではないか。そういう感覚の違いは、多文化主義のなかでは、おそらく家庭内で最も多くのこされているだろうし、逆に日本人はハグやキスを恥ずかしがることも、それを性的だと感じることもあったりする。私はわりとなりきり型で、挨拶としてのハグやキスには全然抵抗がないのだが、プライベートなところで、例えば、他人と同じ湯船に入るのには抵抗がある、という感覚の方に自分をあわせるべきだ、なんて言われたら、やなこった、で、すぐそっぽを向くところがあり、難しい人だとも言われる。郷に入れば郷に従え、だし、嫌な人には無理じいはしないが、その感覚はおかしい、と言われるのは不愉快なのである。だが、多文化というのは、その難しい同士がどうやっていくかを乗り越えない限りは不可能な話ではないか。

 それに、同じことは日本人同士でもあるのだ。たとえば、「かけ湯してからお入りください」とスーパー銭湯や温泉でただし書きがあるが、私の祖父母は、かけ湯はもちろん、下湯、といって、陰部を洗うまでは湯船に入るのを許さなかった。また、それこそ、身長が120㎝までは、子どもは男湯でも女湯でも、どちらでもいい、というところが多いが、そういう子どもが脱衣所からまっすぐに走ってプールのように湯船に飛び込んできゃあきゃあはしゃぎ、お母さんが追いかけてくる、なんてこともある(後でわかったが、そのお母さんは分厚い眼鏡をかけていて、湯気でくもる浴場で戸惑っているところで、とても子どもを止められなかったらしい)。さらに「タオルを腰にまいたままお入りにならないでください」、つまりそれは嫌がるお客さまがいらっしゃいます、と言われても、意に介さない人もいる。神社でも、丁寧に手を浄めてからお参りする東南アジア系の若者達を見ると、外国人でまともにマナーを習った人の方が敬意を払うって往々にしてあるんだよなあ、とも思う。

 のどかな話ばかりではない。幼児性愛者や、家庭内性暴力といったものから子ども達を守るのが難しいのは、それがごく親密な、あるいは家庭内でのことであることが多いせいだ。犯罪歴のある幼児性愛者は、刑期を終えた後も監視対象にしないと再犯に及ぶことが多いとも言われる。被害者がまた加害者になることもある。それが性的虐待だと知らずに性暴力を受けている場合もあったり、水着で隠れている部分を触られた場合、イヤだったらそう言っていい、という”性教育”が必要なのも、それゆえなのだ。

 だが、同時に、親愛の情をあらわす表現と、そういう性的な接触はかなり線をひきづらい場合もある。一概に「それはNOと言わなきゃだめ」と教えこむと、「キス&ハグはキモい」「母親と息子が一緒に同じ湯船に入るなんて」という話にもなりかねない。

 たとえば、”温かい”はどうだろう。お互いの体温が伝わる距離。快に感じるか不快に感じるかは、心理的な、文化的なものになるし、時と場合にもよる。温かみがうれしい時も、暑苦しい時もある。そこにはっきりと線を引けるだろうか。

 少なくとも、切り裂きジャックのナイフには、温かみは一かけらもない。だが、彼のナイフを伝った娼婦達の血は温かかったはずである。

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