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田舎でAndroidエンジニアとして生きている話

Androidエンジニアをしています@cheddar_devです。wirohaさんの記事を受けて、様々な方がエンジニアになるまでの記事を書いているのを楽しく読ませていただきました。おそらく東京在住の方が多く、地方でエンジニアをしている記事は少数でしたので、一つの参考になればと思って書いてみます。

※ 表立って書けることだけ書いたので、人生のキラキラした箇所ばかりピックアップされています。私を構成する要素の、ほんの一部分ということを、ご承知いただけると幸いです。

キーワード

30代, 女性, 既婚, 理系大学院卒, Androidエンジニア, 田舎暮らし

幼少期〜小学生

岩手県で育ちました。父親がエンジニアなので、ワープロから始まり、Windows95, 初代iMacなど様々なデバイスやOSに触れていました。ただ、プログラミングをしていたかというと、そんなことはなく、知育ソフトをひたすらクリアしていた記憶があります。

両親はフルタイムの共働きだったので、普段は保育園や学童保育に預けられていました。大体は最後まで残っていたことを覚えています。友達のお母さんに「かわいそうに...」と言われることもありましたが、全く気にしていませんでした。

普段の遊び場は、実家の畑でした。台所から味噌を持ち出して畑でキュウリ食べたり、庭の井戸で水浴びしたり、かなりのびのびと育ちました。

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庭にある井戸

小学校低学年の頃、生まれて初めて性別を意識した出来事がありました。友達に「ピンクと青、どっちが好き?」と聞かれたので、私は迷わず「青!」と答えました。「ピンクが好きじゃないなんて、おかしいよ!変なの!」と言われたことが、今でも記憶に残っています。当時の私は素直だったので、「女の子=ピンク」という認識で、しばらくピンクが好きと周囲に言っていました。

中学生〜高校生

この頃は、この世代の皆がやっていたように、HTML/CSSやFLASHを触って色々作ったりしていました。

高校は地元の進学校に入学して、県内では強豪の部活に入部しました。勉強と部活に打ち込み、朝6:30に出て夜21:00に帰る生活でした。部活は体育会系の絶対的な上下関係、ドロドロした人間関係がひどく、疲弊した私は「将来は、人間関係のストレスが少ない仕事に就きたい...」と思っていました。

この頃、仕事について真剣に考え始めました。女性はライフワークの変化で職場を変えざるを得ないと考えていたため、「手に職をつけられること」が一番の条件でした。また、皆がスーツで出勤して働くことに意味を見いだせなかったので「居住地域, 勤務時間, 服装にとらわれないこと」という条件で考え始め、翻訳家システムエンジニアになりたいと思っていました。翻訳家は身近にロールモデルがいなかったことや、そもそも将来的に自動翻訳の精度が上がり、不要になるのでは...と思い、選択肢から除外しました。

システムエンジニアに関しても、プログラムがプログラムを書き、プログラムが保守して、さらに新しいものを生み出す世界が来れば不要になるな...と当時考えましたが、流石によほどのブレイクスルーがなければ大丈夫だろうと思い、システムエンジニアを選びました。

大学生〜大学院生

大学入学とともに、ひとり暮らしをはじめました。月3万円、エアコンなし、ムカデが這い回る、ボロボロのアパートでした。冬になると白鳥がやってきて、鳴き声で起こされることが多かったです。

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大学の授業で、初めてプログラミングに触れました。1年生の頃にC言語を学びましたが、なんと追試を3回も受けました。もしかしてエンジニアは向いていないのでは...と考えたりしました。「でもせっかく入学したし、お金もないし...」と齧りつくように勉強しました。そのおかげもあって、3年生になる頃には「大学院でもっと研究したい!」と思えるようになりました。

大学院に入学することを地元で話したとき、「女性なのにそんなに勉強してどうするんだ。バカになるぞ。」と言われました。田舎ということもあり、女性で大学院まで進学する人は皆無だったため、本当に心配してくれたんだと思います。思い返してみると、「婚期を逃すぞ」「地元に帰ってこい」など、大抵のことは言われました。周囲からしたら、私のほうが異質だったので、まあしょうがないかなと思っていました。

大学院は本当に楽しかったです!自分がやりたい研究を朝から晩まで、時間にとらわれずにできる環境は最高でした。女性は1人でしたが、ありがたいことに性別を意識することは全くなかったです。みんなでモンハンやったり、
I Wanna be the Guyやったり、徹夜で発表資料作って早朝に牛丼屋いったり、デビルメイクライやったり...あれ...ゲームばっかりしてる......

大学、大学院ではとにかくアルバイトをしていました。塾講師、旅行カウンター、アンケートスタッフ、授業のアシスタント、学内ベンチャー、ホームセンター、等々。一時期、並行して4,5箇所で働いていたので、旅行カウンターのエプロンつけたまま、学内ベンチャーの会議に行くとかしてました。忙しかったですが、無事に卒業して、ありがたいことに奨学金も全額免除していただきました。やったー!

新卒入社

交通費を捻出するのが辛く、一番最初に内定を出してくれたという理由で、長野県の開発会社に就職しました。Android開発の部署に配属され、受注開発していました。特に大きな不満もなく、順風満帆に働いていました。

3年目〜5年目

この頃から社外のカンファレンスに積極的に参加するようになりました。最新の技術と私の技術に乖離があることや、様々な働き方があることなど、とにかく全てに驚きました。

カンファレンスに参加した際、スポンサーブースに行くことが好きでした。技術の話はもちろんですが、自社のアプリや製品を堂々とPRしている姿が印象的でした。その姿を見て、「私も自社開発がしたい」と思うようになりました。ただ、受託開発しかできない、今の会社では難しいだろうなと、歯痒い気持ちはありました。

求人を探してみましたが、やっぱり地方ですので、カンファレンスで見たようなキラキラした会社は見つけられませんでした。また、地方と都会の給料の差に愕然とし、「東京すごい...でも東京は行けない...」とモヤモヤしていました。

せめて今できることを頑張ろうと、社内の勉強会で積極的に発表したり、個人開発でアプリをリリースしたり、Qiitaに記事を書いたり、業務外の活動に力を入れていました。ありがたいことに、社内で賞を頂いたり、色々な方とお話する機会をもらえて、とても楽しかったです。

5年目の頃から、業務内容が私がやりたいものから段々と変わってきてしまいました。プログラムに向き合う時間はどんどんと減り、仕様調整やマネジメントで打ち合わせに飛び回る日々が続きました。VSCodeやAndroid Studioではなく、方眼紙Excel人間関係に向き合う時間が増えました。

また、プライベートでは結婚しました。新婚にもかかわらず、会社まで往復3-4時間かけて通い、家でも仕事をしていたので、食事はコンビニ弁当、レトルト、惣菜などでした。夫には迷惑をかけたと思います。余談ですが、夫もエンジニアなので、1を説明すれば10を理解してくれて、非常に助かりました。

転職

色々とご縁があり、社会人6年目で転職しました。なんと、引っ越しすることなく、本社(東京)の給与形態で、自社開発できるようになりました。

皆が前向きな環境で、最新の技術でバリバリとコードを書けるので、本当に楽しいです。通勤がたったの20分になったので、家でゆっくり本を読んだり、ゲームしたり、英会話に行ったりと、プライベートの時間が取れるようになりました。

近況

コロナ禍で勉強会がオンラインになり、地方在住としては非常に参加しやすくなりました。平日の夜など、以前は絶対に参加できなかった勉強会に参加できるのが、本当に嬉しいです。

また、様々な企業がフルリモートになり、ありがたいことに私もオファーをいただくことが増えてきました。カジュアル面談楽しいですね...そんな制度あるんだ...とか、そのツール教えて下さい!とか、世界が広がります。

まとめ

エンジニアとしてはある程度のキャリアになってきましたが、振り返ってみると、高校生の頃に私が掲げた仕事の条件を満たしていません(特に時間と居住地の自由)。フリーランスになればいいじゃん!という声が聞こえてきそうですが、自身の環境を踏まえるとチャレンジすぎるため、今は考えていません。

システムエンジニア、確かに向き不向きはあるし、辛いこともあるけど、私はとても楽しいです!職業として、選んでよかったと思います。

おまけ

長野県いいところなので、コロナが落ち着いたら、ぜひ皆遊びにきてね。

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