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この言葉があったから 大学院時代

転校するときに小学校の時の剣道の先生から頂いた色紙。

大学卒業後は、別の大学院に進学した。
ピアノで進学したのだが、希望した先生につくことができなかった。
それでも、小学校の時の剣道の先生からもらった色紙の言葉があったから、そこで頑張ろうと思った。

しかし、学科主任の先生からは、「○○先生は、神経質だから、何か困ったことがあれば、相談してください。」と言われた。また、私のピアノの先生と親しくしている他の先生方からも何かと心配していただいた。同じ院にすすんだ先輩も○○先生をすすめなかった。
そんなにもヤバイ先生なのか?と思ったくらい、周りの人たちが心配していた。

初日のレッスンで、ベートーヴェンの告別ソナタを弾いた。弾き終わった直後に、先生は、私の演奏を全否定したのだ。
別の大学院に進んだ先輩も全否定された話を手紙に書いてきたことがあったし、大学の時の別のピアノの先生も初回のレッスンでは全否定するところから始める人もいたから、まあ、そういうことはよくあるのかなと思った。
それでも、4年間、あれだけ頑張ったのに、その時に変な癖がついてしまったんだなあと愕然とした。たしかに、先生の言うことも分かるし、高校生の時だったら、まず、そこはできていたなあと思った。

その時に言われた言葉の中で特に印象に残っているのが、「日本人ピアニストは船をこぐ人が多い。ヨーロッパではこういう弾き方をする人はいなくて、日本人の弾き方は変に思われる。」という話だった。(今、モスクワにいて、ロシア人の演奏を聴くことが多いが、確かに船をこぐ弾き方の人はいない。)
幼稚園から大学1年まで体を動かさずに弾けていた。大学2年の時に、全国大会2位という1年生が入ってきて、その人はピティナのコンクールに小さい時から出ている人だった。その人の弾き方は体が必要以上によく動いていたのだ。その影響を受けたのは間違いない。
大学3年の時に弾いたリストと大学2年の時に弾いたチェンバロは、体を動かすと弾けなくなることに自分で気づいて、その時は、止まったのだが、その他は動いていた。

その後のレッスンは、まず体を動かさずに弾くことから始めた。先生も子供のころそのような指導を受けたようで、背中に鯨尺を入れて練習したようだ。私の場合は、アップライトのピアノだと自分の姿が映り、体が動いたか分かるため、しばらくそれで練習をした。

レッスンの曲は、研究テーマだったベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番の「ヴァルトシュタイン」。
だいたい、2小節しか弾かせてもらえなかった。
2小節のピアニッシモの粒が真珠のネックレスの粒のように揃うまで何度もやり直しだった。
今日は、もう少し先までいけたなあと思った日でも、第1主題の提示の13小節までだった。よくても、第2主題が始まる前の34小節まで。毎週、今日こそはと思って行くのだが、本当にすすまなかった。
私は、中学の剣道部時代と

大学のピアノのレッスンを

経験しているから、まあ、この厳しいレッスンについていったが、これについていけず、指導教官を変える人がいたり、周りの人たちが心配したりするのも分かった。この時も『啐啄同時』の言葉を日々思い、いずれその時が来るはずとひたすら地道に練習した。
始めの部分しか見てもらえない日々は半年続いた。

10月に大学の時の音楽棟の管理人さんが急死した。2日前に電話で話したばかりだった。悲しくて、ピアノを弾けなくなった。そんなある日、ピアノの先生から「もうレッスンに来なくていいよ。」と言われた。
それで、私は、その通り、次のレッスンを休んだ。まあ、先生自身が自分の本番を抱えていて、私のレッスンどころではなかったと思うのもあって、本当に行かなかった。
その間、大学の時のピアノの先生に、レッスンの様子をお手紙に書き、「もう来なくていいよ。」と言われたことも書いた。なんとか慰めてもらいたいと思って、手紙を書いた。
大学の時のピアノの先生は、忙しくて返事を書くような人ではなかったが、この時はすぐに返事が来た。
寮の部屋は5階の奥だったため、部屋に着くまで開封を待ちきれず、階段をのぼりながら開封して、歩きスマホならぬ、歩き手紙で読んだ。
そこで飛び込んできた言葉は、慰めではなく、「大学院の先生が言うことは正論です。」と書いてあった。
「大人になると叱ってくれる人がいなくなるから、叱って下さりありがとうございますという気持ちで行きなさい。」とか、「ガッツがあると思って厳しいことを言っているはず。」とか、「体に覚えさせたことしかできないのだから、頑張りなさい。」というようなことが書いてあった。
それを読み終わった時に、大学院のピアノの先生から携帯に電話がかかってきた。
「ところで、今日のレッスン来るの?」と。
もちろん、行くことを伝えて、レッスンに行った。
それで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番『ヴァルトシュタイン』を弾き始めたのだが、いつもは、2小節とか、13小節で止められるのに、この日は、第1楽章の最後まで止められず、弾き切った。

弾き終わった時に、先生から「いやあ、よくなった。来年の修了演奏会が楽しみになってきた。」と言われた。
「ところで、どんな練習をしたの?」と訊かれたが、返事に困った。
何しろ、2週間ほとんど弾いていなかったから。
ただ、先生のリサイタルの伴奏の演奏をリハーサルと本番を見ていたのが良かったと思ったから、そのことを話した。
リハーサルと本番を見たのは、ホールの後ろで、しかも、少し高いところで、ぐたっとだらしなく聴いていても大丈夫な照明の調光室で照明操作をしながら聴いていたのだ。
客席でかしこまって聴いていたらこうはならなかった気がする。照明の部屋には、私と先輩が一人いただけで、本当にリラックスして聴けたのだ。さらに、先生の演奏も見ることができた。
これが、何より効果があった気がする。あとは、大学の時の先生からの手紙で開き直ったのも良かったかもしれない。
「よくなった原因が分からないと困る」と言われたが、原因は分からなかった。今でも分からない。

それからのレッスンは、最初の2小節とか13小節とかで終わりということはなくなり、1楽章だけでなく、2楽章、3楽章と一気に見てもらえるようになった。
そうなるまで半年かかったのだが、『啐啄同時』の言葉があったから頑張れたと思う。
まさに、この時が、修行僧と師の僧とが互いに息があい一体不離となってはじめて開悟の機縁に逢うことができた時だったと思う。

本当に2年時の修了演奏会を先生が楽しみにしているのも分かったし、私も弾くのが楽しかったのだが、2年になってすぐ、就職が決まり、院を退学しなければならなくなった。

そして、先生にその後二度と会うことはなかった。3年後に移動中の列車の中で先生は急死した。そう、まさに、4月9日が命日だ。
もともと健康的ではなかったから、長生きしないと思っていたが、60歳の現職中に亡くなった。若すぎた。

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