なぜ、ロシア連邦が好き?文学編⑧

これで、文学編は最後です。

私にとって、ライフワークにしたいと思える作家です。それは、エドゥアルド・ウスペンスキーです。「ワニのゲーナと彼の友達」という話を書き、日本で「チェブラーシカ」として知られるようになった話を書いた人です。

ウスペンスキーさんに初めて会ったのは、2009年6月24日でした。銀座の教文館で講演会があり、その時に初めて会いました。この時、私はロシア人が話すロシア語を初めて生で聞きました。講演会の時に、何かプレゼントをしたいと思い、少し前からいろいろ考えていました。日本らしいものがいいだろうなあと思い、既製品を見ていましたが、いまいちでした。母が、「あんた、千羽鶴を折るのが得意だし、色合いもきれいだし、あれがいいと思うよ。」と言い、私は千羽鶴を作りそれを渡すことにしました。また、ロシア語で手紙を書こうと思い、図書館で「ロシア語の手紙の書き方」という本を借りて、初めてロシア語で手紙を書きました。もちろん、その当時は、33文字のキリル文字さえ知りません。キリル文字でさえ間違いだらけ、単語も間違いだらけの手紙を書きました。講演会終了後に千羽鶴を渡すとものすごく喜んでくださいました。

2回目にウスペンスキーさんに会ったのは、2010年の10月下旬。神保町の本屋さんでした。この時は、先着30名は一緒に写真を撮れるということで、整理券を27番か28番でもらいました。私の番になった時に、1年前に撮った写真を渡してロシア語のチェブラーシカの本にサインをしてもらいました。写真を見て、ウスペンスキーさんは覚えてくれていました。

3回目は、2014年6月14日に新潟で会いました。ウスペンスキーさんに会うために、新潟まで行きました。その時は、術後でウスペンスキーさんは歩くのも大変そうでした。講演会後、本にサインしてくださるということで、最後に並びました。サインをする本は、新潟の国際課の人があらかじめ決めていて、私が持っているロシア語の本は対象外でした。そのため、私はサインを求めず、ウスペンスキーさんとロシア語で話しました。私が持っている本は、古本で買い、ページが破れていて2ページ分読めないところがありました。それで、読めないことを伝えると、ウスペンスキーさんは破れた部分をサラサラ書き始めました。この作品は、30年も前に書かれたものです。それを覚えていて、ペンは止まりませんでした。しかし、国際課の人は時間が過ぎているのと、サインではないではないかといらだっていたため、明後日までに書いて渡すと言われました。

そして、4回目に会った2014年6月16日。上智大学での講演会でした。この時に、2日前の新潟で渡した本が戻ってきました。この時にウスペンスキーさんに会ったのが最後です。何となく、最後になる気はしていました。

2018年8月14日にウスペンスキーさんは、ガンのために亡くなりました。この訃報をロシア連邦のニュースで知りました。そして、ニュースでお別れの会の案内が一度だけ流れました。それを聞き逃さなかったのが奇跡です。お別れの会の会場も知っている場所だったし、義母が故郷へ帰省していて自由になりやすい日だったため、お別れの会に参列しました。ロシア連邦での初めてのお葬式がウスペンスキーさんになるとは思ってもいませんでした。

お別れの会では、プーチン大統領からの弔電と日本からの弔電だけが読まれました。チェブラーシカ博物館の館長さんとも再会し、私は、その後バスに乗って墓地への埋葬、追善供養とウスペンスキーさんとしっかりお別れをしました。

1年後に墓石が完成するだろうと思い、お墓参りに行くと、セレモニーが終わった後で、出版社の人と再会し、ウスペンスキーさんの娘さんとも再会しました。

その晩、食事会があるということで、急遽参加することになり、ここでも、ウスペンスキーさんと昔から親しかった方々と何人も知り合いになりました。

2019年12月に開催された展覧会のオープニングセレモニーにも招待され、ウスペンスキーさんと関係のある方々とさらに交流し続けています。

私は、ウスペンスキーさんと出会い、ロシア語のチェブラーシカの本を買い、その本のお話がたまたま入っていた朗読CDを買い、チェブラーシカを通じて独学でロシア語を勉強しています。そして、ウスペンスキーさんと親しかった方々と交流するにつれて、ウスペンスキーさんに関することをライフワークにしようと決めました。

コロナが収まり、日本から知り合いが来るときに、モスクワ市内にあるチェブラーシカゆかりの地へ案内できる日を楽しみにしています。





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