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【映画批評】『マッドマックス フュリオサ』生を掴み死を回避するための「拾う」行為について【ネタバレあり】
荒野を車が走る。復讐や執念が茹だるような暑さの中で滾る。一般的にこのような作品のことを「現代西部劇」と呼ぶ。西部劇における馬が車に置き換わっていることから「現代」とつくのだろう。しかし、馬から車に変わっただけで西部劇になるのだろうか?また、馬と車の違いを考慮して「現代の」西部劇になっているのだろうか?今まで、「現代西部劇」はイメージのしやすさもあってか厳密に定義されてこなかったような気がする。そこに、ジョージ・ミラーが斬り込んだ。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の前日譚として製作された『マッドマックス フュリオサ』は、襲撃、復讐、直線的なアクション、鈍重なストーリーテリングとクラシカルな西部劇のスタイルを取りながら車やバイクといった乗り物の特性を捉えている。それだけではなく、ジャンルの再構築として「拾う」アクションを執拗に反復させている。そのため、「現代西部劇」を語る上で前作以上に重要な作品だといえる。今回は、ジョージ・ミラーが考える「現代西部劇」像を読み解いていきたい。
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