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音楽の記憶と父親

夢を見た。夢の中で、私は実家のボロボロなピアノを弾いている。

こんなにボロボロになったはずはないのに、なぜかボロボロだ。

実際のところ、私は中国の実家に帰ることも、ピアノを弾くことも、もう何年もしていないのだ。

夢の中に母親も父親もいる。目が覚めたら、昔の光景が思い浮かんだ。

そしてふと気づいた。私は父親がいる前で、ピアノを弾くのが好きじゃない。

ピアノにまつわる小さい頃の記憶の中で、父親はいつもピアノ練習の監視役でいた。クラシック音楽が好きな父親ではあるが、彼自身はピアノなどが弾けるわけではない。が、ピアノを習う私には厳しかった。ある時、上手く練習できなくて、父親に怒られ、楽譜まで引き裂かれた。怒られた時の理由など、具体的なことはもう一切記憶していない。ただ、後に母親に繕われて使用され続けたその楽譜は、今でも実家のピアノ椅子の中にある。実家でそれを目にするたびに、過去のことを思い出す。

ピアノ教室に通っていたのは小学校六年までだった。特別に上手になったわけでもないし、中学校に入ってからは勉強を優先させることになった。それ以来、たまにしかピアノを弾かなくなった。中学校二年の時に両親は離婚したのだが、高校三年の時に親が復縁するまで、私は父親と一緒に暮らしていなかった。再び一緒に暮らすようになって、私がピアノを弾くたびに、父親は喜んだ。相変わらず下手なピアノだったが、父親はもう怒ることなく、ただただ喜んだ。しかし、父親を喜ばせるためにピアノを弾いていると思うのがなぜか嫌だった。私は、音楽を、父親とは関係なしに、あくまで自分のものにしたかった。

私の音楽にまつわる記憶には、父親がいた。それは父親がトールボーイスピーカーで流したクラシック音楽や流行歌だったり、父親が口ずさんだ歌だったり。食事の時に音楽をかけると、「食事しながら音楽を聴くな」と父親に叱られることだったり。

父親が離婚して家を出た時、私にくれると言い、オーディオ機器を残してくれた。自分でCDを買って聴くのは、それからだった。初めて買ったポピュラー音楽のCDは、台湾の女子三人組S.H.Eの『青春株式会社』というアルバムだった。このように、父のトールボーイスピーカーで、私はポピュラー音楽のCDを聴くようになった。歌を聴いて、歌を覚えて、歌を歌った。父親が不在の間、私は自分の音楽の趣味をつくることができた。そして、たまたまやっている音ゲーの中の曲を聴いて、なんとなく日本語で歌えるようになりたいと思い立ち、日本語を勉強し始めたことは、その後の私の人生の軌道まで決めた。

日本に来てから、私は「朧月夜」のメロディーに自分の歌詞をのせて歌ったことがある。

何かを求めて 旅に出かけ
何かを探して この地に辿り
母の面影も 父の声も
忘れそうになる 朧月夜

見上げる夜空に 星は見えず
さすらう茶畑 誰もいない
歌うよ この声 春の夜に
この旅つづくよ いつまでも

「母の面影も 父の声も」という歌詞は、その時のかんでなんとなく書いたのだが、「母の面影」「父の声」とするのは、やはり私の中で「母の面影」「父の声」でなければならないからだと思う。


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