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教えてノワちゃん!D作品から学ぶこと第1回

おつノワ~!
倫理を語る5歳児こと、シャノワール・カサブランカだよ!今回は僕の大好きなディズニー作品から学べる、教えてノワちゃんのコラムを書きたいと思いま〜す。考察や推察も交えた内容になるから、⚠︎ネタバレ注意⚠︎

 もし題材の作品を見てないって人は、観た後だとより理解しやすいし、読んだ後に観ても新しい観点から見れると思うから良かったらチェックしてみてね!

さて、今回の記事のテーマだけど実はずっと優秀な教材だなって思っていたディズニー作品があるんだよね、多分皆もテレビ放送とかで1回か2回は見かけたことはあるんじゃないかな?今回の教材は……「塔の上のラプンツェル」です!そしてテーマは「毒親」だよ。じゃあ解説していくね。

以外 ネタバレ⚠️注意


ディズニー作品のラプンツェル

原作 ラプンツェル/グリム童話

塔の上のラプンツェルはウォルト・ディズニーアニメーション・スタジオで制作された初の3Dプリンセスストーリーの作品で、2010年にアメリカで公開されました。原作となるストーリーはグリム兄弟が手がけるグリム童話「ラプンツェル」であり髪長姫と訳される事もあります。原作であるラプンツェルですが、グリム童話は初版の頃だと子供のための書物と言うよりは、大人のための教訓書の様な側面もあって、実際のストーリーは性描写もしっかりあるという事を頭の片隅に入れて置いて下さい。うっかり原作に近い作品を読むと血なまぐさかったりセクシャルだったりします。

・補足:グリム童話とは……
そもそもグリム兄弟の書いたグリム童話はいずれの作品も風俗的な民話や寝物語、伝承の総集編であってグリム兄弟が考えたオリジナルの作品ではない童話群集なんですね、なので当然ですが初版以前の元ネタと言われる民話が存在していてそれらはもっと過激だった訳です。グリム兄弟は後に性的描写や残酷的描写を減らし教訓的な面を強くしたものを出版するようになりますが、初版にそういった描写が多いのは元ネタがそうだったからというのがあります。


・塔の上のラプンツェルの内容

はるか昔、太陽の雫が地上に落ち光り輝く黄金の花が咲く。黄金の花は、どんな病や怪我も治す治癒力を持っており、この花を偶然にも発見したマザー・ゴーテルという老婆は、その花を独り占めにし、特別な歌を歌(古くから存在する魔法なのか、或いはゴーテルが生み出したのかは不明であるが、みんなが知らないヴィランズのマザー・ゴーテル編では、花はかつて沢山存在しゴーテルの母親もまたそれによって若さを保っていたとされるので、知っていたのかもしれない)によって何百年もの間、己の若さと美貌を保った。それから何世紀も経ち周囲には城ができ上がり王族が住まうようになった頃、王妃が大病を患い国総出で治癒の花を探すこととなった。不幸にもゴーテルのミスによって隠していた花(どうやら最後の一輪だった様子)は見つかり、王妃の元へと運ばれ王妃は健康となる。そうして産まれたのが「ラプンツェル」であったが、王妃の体内に取り込まれた花の力はラプンツェル自身に継承した。ゴーテルはその可能性に気が付き、城へ侵入し赤ん坊であったラプンツェルの髪を切り落として持ち帰ろうとするが、鋏を入れた瞬間に力は喪われやむ得ずラプンツェルを誘拐する事にする。そうして十八年の月日が過ぎ、成長したラプンツェルは自身の誕生日とされる日に空に灯りが飛ぶ(生誕の際、そして誘拐されたラプンツェルを偲んで飛ばされる提灯)為、近くで見てみたいと願うようになる。ゴーテルによって却下された願いではあったが、その時にお尋ね者であるフリン・ライダー(後に本名をユージーンと名乗る)を半ば脅すようにして最強の武器フライパン片手に塔から地上へ降り立ち、すったもんだの末に灯りを見ることに成功する。冒険の最中惹かれ合う二人であったが、色々な都合によって離れ離れになり、ゴーテルの手によってラプンツェルは塔の上へ再度戻ることとなるが、都合宜しく自分が誘拐された姫であったことを思い出す(と言うより疑惑が確信に変わる)バチボコの親子喧嘩の末、ゴーテルは余裕でラプンツェルを捕らえる、助けに来たユージーンはユージーンで間が悪いので余裕でゴーテルに刺される。それによってラプンツェルは自分を犠牲にユージーンの治癒をゴーテルに乞いゴーテルは仕方がなく許したが、ラプンツェルの犠牲を望まなかったユージーンによってラプンツェルの髪はバッサリと切りおとされ、同時に魔法の効果が切れたのかゴーテルは急激に老化し塔から落下・灰と化して死亡。ユージーンはラプンツェルの涙によって治癒され復活し国王と王妃にラプンツェルを会わせ、二人は結ばれてめでたしめでたし。

Wikipediaを参照したものを簡略化。


・グリム童話/ラプンツェルの内容

魔法使い(ゴテルだったり、お婆さんだったり色々)の隣に住む農夫のおかみさんが、魔法使いの家にあるチシャ(ラプンツェルだったり色々あるが、雑草であり妊婦に良いとされる食用草の事。ハーブの一種であり、種類的にいえば菜っ葉)が生えており、それを食べられなければ死ぬ!と言うレベルになってしまう。

ちなみにこの「食べられなければ死ぬ!」について補足として別記事を制作致しましたので、よろしければ医学的に興味がある方や、雑学として知りたい方はこちらの記事を参照ください。

おかみさんを深く愛していた旦那さんは、愛するおかみさんが死んでしまうくらいなら!と魔法使いの庭に侵入してチシャを盗み、おかみさんに食べさせますが、おかみさんはチシャを食べたことでますますチシャを欲するようになります。旦那さんはそんなおかみさんの為に再度チシャを取りに行きますが、魔法使いに見つかってしまいました。激怒する魔法使いでしたが、旦那さんはおかみさんの事情を話し魔法使いもそれなら……と好きなだけチシャを持っていくことを許可します。ただし世の中というのはいかなる時も代償というものは付き物で、チシャと引き換えに魔法使いはおかみさんの一番目の子供を要求します。そうしてチシャを得た農夫夫婦は無事に産まれた子供を魔法使いに引渡し、魔法使いは子供が18歳(すぐ様にという表記もあるので詳細は不明)になると塔に閉じ込めてしまいます。

この時18歳になっていた子供、つまりはラプンツェルですが2人といない程の美貌を持っていたとか。出入口のない塔からラプンツェルの頃へ行くには、ラプンツェルの長い髪を窓から下ろしてもらい、それを使って登らなくてはなりません。そうして過ごしていた魔法使いとラプンツェルでしたが、王子が狩の途中に美しい歌声に誘われて塔を発見、登り方を真似てラプンツェルと対面。ラプンツェルの美貌に心を奪われた王子は、ベッド・イン、そしてプロポーズまでします。ラプンツェルはこの時、この王子の美しさと若さ、そして魔法使いよりも自分を可愛がってくれそうだという点から承諾しますが、無知な娘ですのでやることやってれば出来るものも出来るとは知らずに、魔法使いに言ってしまいます。

おばあさん、最近お洋服がきついの」と。

その事によって魔法使いはラプンツェルが妊娠したことを知り、怒り心頭で長い髪を切り落として荒地へ放り出してしまいます。それを知らない王子は、その夜もラプンツェルの所へ訪ねるも切り落とした長い髪によって招かれ、恐ろしい顔をした魔法使いに「あの子はもういない」と告げられたことによって絶望し、塔から投身自殺を図ります。幸い、命は喪われませんでしたが、王子の着地した場所には茨があり、王子はその茨の棘によって両目とも失明してしまいました。そうして長い間王子は木の実などを食べながら生きながらえ、森をさまよった末にラプンツェルが追放されし荒野へたどり着き、二人は生まれた子供と共に再会。ラプンツェルの喜びの涙によって王子の瞳は治癒し、2人で国に帰宅しめでたしめでたし。


髪長姫に共通しているところ

この他にも髪長姫の伝承は複数の国で存在し「ペトロシネッラ」や「ペルシエット」といった名前で結末や細部は違えど似たような話はあります(野菜の名前がついていて、ペトロシネッラやペルシエットはパセリの事です)が共通しているのは、妊婦が他人の庭のものを欲しがり、無断で食べてしまうという罪を犯すことと魔法使いは女性で必ず子供と引き換えに罪を許すということ、そして絶対塔に閉じ込めてしまうこと、です。ちなみにペトロシネッラでは魔女は、パセリを食べられたことに酷く憤慨し「他人の皿のものに手を出すもんじゃない、自分の皿で食べるべきだ」と言っていたりとかなりド正論です。

塔の上のラプンツェルでも制作当初は王様がゴーテルの庭の花を盗む所からスタートにする予定だったそうですが、そうすると勧善懲悪にはならず王様悪いやん!になってしまうので、敢えて隠していた所有権を誰も持たない花、という設定に変更しています。

余談 なんで昔の魔女や登場人物は「子供と引き換え」が多いんでしょうか?確か、ルンペルンシュティルツヒェンでも対価は子供でした。(ルンペルンシュティルヒェンは願いを叶える対価として最初の子供を要求したドワーフです)食べるんでしょうかね?


マザー・ゴーテルは悪い人か?

さて、そろそろ本題に入ります。マザー・ゴーテルは悪い人か否かという話ですが、結論から言ってしまうと、マザー・ゴーテルは悪い人でも無ければ良い人でもありません。とても人間らしい人です。ただし優しい人では絶対ありません。

まず、マザー・ゴーテルという人柄に着目してみましょう。彼女は作中で、自分の美貌にしか興味がありません。それはもう極端な程で、ナルシストであり、同時にそれ以外への関心が全く向いていないです。

ディズニー作品では様々な悪役が居たと思いますが、美に執着している存在といえば白雪姫クイーンが有名ですね。彼女と違う点があるとすれば、クイーンは「世界で1番美しいこと」に対して執着していましたが、一方でゴーテルは「私は美しい!」以外の主張はしていないのです。それは作品を見ているとよく分かる所で、鏡にうつる自分とラプンツェルに対して「ラプンツェル、鏡を見てごらん。ほら、何が見える?自信に満ち溢れた強くて美しい、若い女性…あらっあなたも映ってた?アッハッハッハ…やあね冗談よ。何でもそんなに真面目に受け取らないで」と言っています。

所で鏡という存在はディズニー作品では割と重要なアイテムです。

例えば白雪姫のクイーンにとって鏡は「自信」と「自己肯定感」の象徴と言えるでしょう。実際にクイーンは鏡によって自分が世界一美しいということを肯定してもらい、自己を肯定する事を繰り返していましたし、リトル・マーメイドではアースラが鏡で口紅を塗り、アネッサに返信した時も自分の美しさとを確認していました。この時にアネッサの姿でありながらも鏡にはアースラがうつっており、クイーンの時も「真実のみ答える」という特徴があるのと同じで「真実の姿」をうつす、という本質を写すアイテムとして使われています。美女と野獣では野獣がベルに望むものを見せることの出来る魔法の鏡を貸していましたし様々な描写で使われます。

マザー・ゴーテルですが、様々な意見がある中で僕が何故、この人を悪い人でも良い人でもなく、人間らしい人と表現するかというと、彼女はまず自分の美と若さに執着しているという点です。一件、高飛車で嫌な女の様に思いますが、本当に美しさに自身がある人間というのは美しいのが当然なので他者に言い含めるような行為は余程性格が悪いか、或いは自信がない・自己肯定感が低い、等の理由がない限りはしないという点です。

むしろ明確な「私は美しいでしょう?」といった発言より厄介で、美しいことにおける恩恵が当たり前すぎて、そうでは無いこと、そうではない人達に対する理解が浅く、また不可思議に感じる傾向にあります。それらを踏まえるに、彼女は鏡に向かってそう言うことで自分の価値を自分で高め、言い聞かせていると見た方が適切でしょう。

またこれは映画の方の情報では無く、またその設定がどこから来ているか、脚本の時点で作られた性格や設定なのかが不明なので、どこまで取り上げまでも良いか悩みどころではありますが、ゴーテルの過去のエピソードとして特定の居住区に母と二人の姉と暮らしており、姉と異なり「死の女王」である母親の跡を継ぎたいと思っていたにも関わらず、母親は自身の魔術実験に没頭し魔術を教えてくれなかった事や、姉を救うために母親を殺害したこと、そしてその際にかつてはあった他の魔法の花の力で美しかった母親が燃え溶けたのを目撃しているなどの事から、より一層「自分」という物を保つために必要だったのでしょう。ちなみに、ゴーテルはその後姉を喪い、姉を甦らせる為に必要だった魔法の花を3人の魔女に騙され奪われ、最後の一輪であった花も王妃によって奪われた為にラプンツェルを誘拐することとなった、という経緯がある様です。ラプンツェルが塔の中であれば自由に過ごせていたのは、自身の幼少期の不自由さから由来しており、また何かと買い与えていたのも恐らくは母親との関係が強く出ているから、とも言えるでしょう。また追加で言うのであれば、大きくなるのを待っていたのは力が強くなるのを待っていたのが理由の様です。

これらを踏まえるに、マザー・ゴーテルという人間は自信家の様に見えて自己肯定感が低く、目的の為に手段を問わない割には情に甘く、人間不信であり、家族というものに憧れを持つ劣等感が強い人柄ということになります。それらを感じさせない程度には強くあろうと傲慢な態度や行動を繰り返し、自身は大丈夫だと言い聞かせ、不遜な態度をし続けていると見るのであれば、実に人間らしいでしょう。

さて、マザー・ゴーテルですが、彼女は設定上では魔女ではあるが魔法は使えないとされます。過去のエピソードでは、母の力を継承する為に血を飲むといった儀式が必要だったのですが、それを行う前にゴーテルは姉を守るために母親を殺害してしまったので、継承は済んでいません。ですが、作中で歌を歌う事で魔法の花の効果を引き出し、姿をくらましたり等、少しばかり一般的な人間らしからぬ行動をしている場面もあります。それからマザー・ゴーテルはよく歌を歌いますが、大抵その場面では相手を説得したり、関心を自分に移したり等の時に用いられるのです。

マザー・ゴーテルは魔法は使えない、という設定にはなっていますが、完全に使えないという訳ではないと思います。僕が考えるに、マザー・ゴーテルは完全な使い方を知らない、継承していないだけで、不完全な状態では使えるのではないか?ということです。マレフィセントやクイーンやアースラはその点しっかりと魔法を使えます。しかしながらディズニー作品において魔法というものの存在は曖昧です。ディズニープリンセスの大半は歌うことで相手の懐に入る描写が多いと思うので、その点を考察するにマザー・ゴーテルは言霊や呪詛を扱うことは出来たのではないかと思いますし、ラプンツェルや他のプリンセス達も歌うことでそういう魔法を発動させているのではないのでしょうか?その点を考察しながらみていくと、マザー・ゴーテルは使い方自体はとても上手です。

ゴーテルに愛はあったか?

賛否両論に分かれていますが、愛情はありました。これは断言できます、但し「愛情」の定義と「愛情として認めるか」によって意見が食い違います。ゴーテルが毒親であるという意見は、とても根強く色々な人が言っていますし中には「ゴーテルに愛があったなんて言えるやつは毒親育ちの気持ちが分からなすぎる」と言う意見もあるでしょう。しかしながら、僕のパパの母親はまさしくゴーテルに近しいタイプの毒親だったからこそ断言出来ることがあります。「愛情」はあるのです。

ただしその愛情が健全かどうかは別問題ですし、子供側がそれを愛情として認めるかどうかもまた別問題です。これは多くの人が一つの指針として持っていてもらえると助かるのですが、愛情というものは正解が無いです。こうあるべき、も無ければ形にとらわれるものでもなく、自由であり同時に複雑でありシンプルでもあります。愛情とは性欲であり、自己犠牲であり、自己満足であり、エゴであり、そして美しくも醜くもあります。美しく満たされるものだけが愛情ではありませんし、如何なる愛情も否定していいものではないのです。だからこそ、上記にある通りゴーテルに愛情はあった、と断言は出来るわけです。しかしながらそれを愛だと受け取るかどうかは受け取り手の自由です。

では、マザー・ゴーテルの愛情とは何だったのでしょうか?  難しいところではありますね。特に作中にない過去のエピソードを含めるとより一層複雑になりますが、1番はペットや手間暇かけて育てた植物にも似た愛情が近いのだと思います。それから自己愛と、身内としての情。同時に憎しみも持ち合わせているでしょう。

ゴーテルにとってラプンツェルという存在は、花であり、自身から花を奪った王妃の娘であり、家族を取り戻す為の希望であり、所有物でもあります。こうしてみると何処に愛があるのか?と疑問に思う部分もありますが、花の力が大切だったとしても、赤ちゃんの頃から育てている事を考えるに自分にとって従順で、知識もなく、思考力もなく育てる事は可能だったと思います。最もそれによって魔法の効果が劣ってしまう等の設定がある場合は今までの話は破綻し、ゴーテルは必要最低限の事しかしていないという話になってしまいますが、そうだとしたのなら終盤で軟禁から監禁に切り替えようとするのは悪手ですし、ゴーテルは作中で非常に頭の回転が早いので別の策を使ったでしょう。それらを前提に置いた所で言うのであれば、ゴーテルはまず、慈悲のない人間、親にはなりたくなかったのだろうという事が考えられます。まあ自己保身の一種であり、ゴーテルに残された善性とも言えますね。


ゴーテルは可哀想な人?

さて、長々とまるで擁護するかのようにゴーテルの話を語りましたが、僕はゴーテルが嫌いな訳ではありませんが優しい人であったとか、本当は可哀想な人であったとか、擁護したいとかでは一切ないです。キャラクターとしては愛すべき悪役だとは思いますが、実在の人間として考えるなら大嫌いです、それこそ死んで欲しいくらいに。物語の終盤のように消えてくれたならどれだけ良かったか、とすら思います。それでもここまで書いてきたのは、人間という生き物には一面しかない訳ではなく、二面も三面もあり、様々な角度で見た時にたくさんの理由が存在しているということです。そしてその理由があったとしてもしていいことでは無いということ、また同時に誰しもがそうなる可能性があり、それは誰もが持っているものであるということを理解してもらいたいからです。ゴーテルの過去に触れたのもそれが理由で、人間という生き物は断続的ではなく永続的に積み重なっていきます。経験、価値観、環境、繰り返されていく刺激、知識、感情。ゴーテルの作中での行動は、あまりにも人間なら誰しもが起こしかねない日常に溢れた過ち、です。

ゴーテルの持っていた情を愛情と表現するのも、ありふれた感情、関係性であるというのも理由です。尤も、こんなものを愛情と認めたくはありません、少なくともそうやって苦しんできたのであれば尚のこと。ああいったものは愛情と呼ぶには歪過ぎるのですから。それでも愛情という種類に区分されるひとつの感情であるということは揺るぎません。そう、呼びたくないというのは主観であり事実ではないからです。

ここからは、多くの人に考えて欲しいという意味で執筆していきます。漸くきっちりとした本題になりますね。


ゴーテルから学ぶ「毒親」の常套手段


・マウント行為、自己肯定感の否定

まず、毒親は必ず全員が子供にマウント行為を行います。それというのも、自分が上だと理解させることによって相手を従わざる得ないと思い込ませる為です。やってる本人は無自覚的で、それが正当なものであると思い込んでいますし、マウントだと認識してはいません。ゴーテルの場合、冒頭からわかり易くマウントを行っております。そうです、「私は美しい」という言い聞かせや「お母さんは何でも知ってるのよ」といったあれです。ゴーテルのマウントは実に心理学的には優秀なやり方で、感情論だけでは無いところがはっきり言って「いやらしい」んです。例えば、よくある現実の事例で行われるマウントは過度に自分の能力をひけらかし、上位に立とうとするやり方です。自分は他の人間にも認められている!といった形ですね、しかし実際は家庭の中でだけ効果を発揮するのですが、ゴーテルのやり方はもっと姑息、卑怯と言えるでしょう。というのも、まずゴーテルがラプンツェルに対して行うマウントは大抵パターンとしてセットになっています。

まず、相手の発言を全部否定したり怒鳴って辞めさせたりするのではなく一応は「聞く」体制を見せます。その上で完全な否定を見せるのではなく「いつか」「今はまだ早い」「貴方は子供だから」という言い方で肯定に見せかけた否定をします。そうする事で明確な力関係を示し、自分は特別!とやらずともラプンツェルを少し下に置くだけで済みます。それと同時に「自己肯定感」というものを僅かに削りますが、完全に無くしたりはしていません。多くの毒親はこのバランスが下手であり、自己肯定感を全部削いでしまうやり方を好みます。理屈で考えるのであれば、自己肯定感は全部ない方が都合がいいのでは?と思うかもしれません。ですが毒親の心理的に求めている完全な服従や、所有を優先して見た時に自己肯定感は多少育てなければなりません。何故ならばそうすることによって「毒親である」と悟らせずに管理することが出来るからです。その点ゴーテルは適度に自己肯定感を育てながらも「お母様より上ではない、お母様より上にはいけない」という価値観をラプンツェルに植え付けます。だから最悪なのです。この手の洗脳は本当に解くことが難しいので……。


・愛情、関係性の搾取

ゴーテルはよくラプンツェルに「私はお母さんだからわかるのよ」と「貴方の為なんだから」と言います。それと同時に作中から窺える様に、ラプンツェルの欲しいものや好きな物、望んだものを何だかんだ言いながらも揃えようとします。それが自分が許容している範囲なら多少の努力は見せるということです。これはかなり高等な技術でもあり、交渉術にも使えます。一番目の希望は通して上げられないけれど2番目の希望は通してあげる、という姿勢を見せることで「自分がワガママだった」と思わせることが出来るし、そうすることで罪悪感を作り上げ引け目を作ります。また、そうやって愛してるという態度を見せることで相手が愛されていると錯覚し、一時的にも満たされた気になっている状態を作り上げることで、返報性の原理(オウム返しの法則ともいい、親切にされたら親切にしようと返す心理)を最大限に活用することが出来ます。この場合ゴーテルはラプンツェルに対して最小の努力で大きめの信頼を得るという事を繰り返し、自分にとって有利な場を作り上げています。


・情報の遮断

無知であると言含めるのもそうですが、外部との接触を断つことによってより、自身のコントロールがしやすいようにしています。ゴーテルの場合は他にも理由がありましたが、現実の毒親は友好関係の管理・思考、知識の管理をしようとします。尤も最近は、毒親の世代があまり賢くは無い様子で完全な遮断を出来るかと言われれば別です。僕のパパ親はその点ゴーテル並に上手かったように思います、例えばそもそも情報を与えない為に常に入ってくる情報に対して訂正を加えようとしたり、ネットの人間の意見に関しても信用するなという言い方ではなく「全ての状況をしらないからそういう意見なのであって、全ての状況を知ったらお前がそうされてることは当然だと言うだろう」と言ったり等です。特に上記のやり方で教育されている子供にとってこういった表現は「そうかもしれない」と思わせ、判断能力を低下させます。


・時には放任し、しかし帰る場所は用意する

ゴーテルがラプンツェルに対して好きにしなさい、自信があるのならね。という突き放しをした上で、妨害をしておきながら素知らぬ顔で「やっぱりね、ほら痛い目にあったでしょ、私が言った通りじゃない、おいで」と帰る場所を用意しています。正直かなり子供から見て最悪な手段です。相手の自主性を尊重してる様に見せかけてはいますが、実際はかなり妨害してきています。その事に気づかせない人もいますし、あからさまに妨害してくる人もいます。しかし、そこで失敗するのは当然なのにも関わらず失敗したことを責めず、受け入れて自分の正当性を主張しながらも、慰めます。これによってラプンツェルがやっぱりお母様しかいないんだわ!と一瞬でもなった様に、大抵の子供はゴーテル、もとい母親や父親に対して安心感と罪悪感を持ちながら元の場所へと戻っていきます。そうなってしまえばもはや、抵抗する気力というのもなくなっていくものです。


他にもゴーテルはかなり上手いやり方でラプンツェルを絡めていますが、主に使ってる手法はこの通りです。さて、今回この記事を執筆した理由について触れていきましょう。


まとめ

まず、この記事を執筆しようと思っていたのはかなり前からで、ラプンツェルを題材にしたいとはずっと思っていました。それほど、モデルケースとしてラプンツェルは優秀だったからです。

ゴーテルとラプンツェルの関係性は、現在の一般家庭における母娘に多くのみられ、時には父娘や父息子、母息子などでも行われます。それほど多くの人間が今や毒親であるということなのです。しかも、この手の話において怖いのはゴーテルの場合は明確な過ぎる「魔法の花」という別の関心があったからこそ分かりやすかっただけで、多くの毒親は、自分の子供に対して本当に愛情としてこういった行動をしています。実際に、不幸になって欲しいという気持ちがある訳ではなく、自分の価値観が正しく、その中で存在する幸せ以外には道がないと思い込んでいる、というのもそうです。或いは子供は自分の所有物であると考えている毒親も多いです。愛情の有無は正直あまり明確にできない点ですが、様々な形、考え、価値観はあれど、親側が理解しなくてはならない最大の点は親子だろうとなんだろうと別の個体であり、責務が終了し次第感情がどうであれ、親は子に口出す権限は無くなる、ということです。その目安が成人ですし、それ以降はどんな感情であれ対等な大人同士としての話し合いになります。選択権は個人個人にあり、親が決める権利を所有することはありません。

つまり、成人するまでの間親はその子供が必要とするあらゆる教育・衣食住・感性や価値観の構築を可能な限りで与え、育てるのが義務であり、また余程例外的な事情(例えば詐欺や窃盗や借金等のこと)がない限り、自身の子供に金銭的にも精神的にも見返りを求めてはならない、ということです。例え愛情であったとしても。

何故か?それは例外的な事情(暴行や犯罪、強制された等の理由)以外では子供というのは「親の欲(性欲、或いは物欲、純粋な愛情も含まれる)によっての誕生する」存在だからです。子供が成人するまで育てる義務、とは即ちその欲への対価だと言うことを理解すべきです。その対価が過剰支払いになることは余程のことが起きない限りはないです。

成人して初めて対等な関係性が発生しますし、義務の中でしっかりと対価を払っていたのであれば大抵の場合は対等になった時に、健全な関係を構築できるでしょう。まあ場合によっては無理だったりしますが……。これらも正解という訳では無いので、あくまで理想的な形、理想論であるということはお忘れなく。

さて、話も長くなりましたがこの記事を読んでもし、自分の親が毒親かも……?と思った場合、それについてしっかり考えるべきです。

そして残酷な真実として一つ伝えられるとしたら、そう言った人間の価値観を変える事は、ほとんど不可能に近く、行動を起こせるのは自分だけである、ということ。もし毒親であると気づいたのであれば、期待は抱かず自分が安全な位置に逃げる準備をしてください。怖いかもしれませんが保身的になることは得策ではありません。ラプンツェルの様に冒険に出かけることで見えてくる真実があるのです。

きっと踏み出したあと、ラプンツェルがユージーンの前で情緒が不安定だった時のような感情が溢れてくるでしょう。しかしながら、それでも前に進む必要があります。僕達は親より長く生きますから……

ノートルダムの鐘という作品で主人公のカジモドにガーゴイルのラヴァーンが言います。

「ずっと籠の鳥なんかで居たくないだろう」

僕達は、籠の鳥じゃないでしょ?


以上です。





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