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'70s Memories

FaceBookのノートが廃止になるとのことで移植


Preface

 2016年3月11日。僕の最大のアイドルKeith Emersonが逝った。僕が洋楽を聴き始めてからずっと、彼の音が身近にあった'70年台の個人的シンセサイザー史を中心に、思いつくまま回顧してみた。
 書き終えてみればただの顕示的自分語りにしかなっていないが、まぁそれでも僕にとってはとても大切な一時期ではある。鬱陶しい点は何卒ご寛恕賜りたい。

§1  Radio Days

 '70年台。だいたい僕が中1から大4までの時代に当たる。
 ELPのファーストが発表されたのが1970年、解散のアナウンスが1980年。
洋楽の聴き始めから学生バンドの終わりまで、僕にとっては音楽生活の1つのピリオドだった。 洋楽を聴き始めた頃の僕にとって、ビートルズは既に無かった、というか、既成の事実としてそこにあったものなので、同年代以上の方々のように「ビートルズを聴いてショックを受けた」という体験はないし、今でも1枚もレコードを持っていない。
  ゼッペリンを初めとするロックや、1910フルーツガムカンパニーとかハミルトン、ジョー、フランク&レイノルズなど、多数の正当派ポップスに混じって、ひときわ異彩 を放っていたバンドがELPだった。僕の洋楽はELPとChicagoとChaseで始まっているのだが、いまだにそれが尾を引いている。3コードのダイ アトニックな進行ではなく、4度堆積の不穏な調性感に対する興味はまさにTarkusに始まっている。
 5歳の頃に始めたオルガン、その後進んだエレクトーン教室は小4の時には辞めていたが、家にはYAMAHAのトランジスタ基盤、真空管アンプ、スプリングングリバーブ付きのエレクトーンB-5があったし、時々弾いてみていた。そういう時期にELPを聴いて、オルガンはこんなに格好良く弾けるんだ、と思ったものだった。ラジオではなかなか全曲は聞けなかったけど、ナットロッカーとか展覧会の絵なんかはよく流れていたように思う。割合平板なエレクトーンの音に慣れていた耳には、AMラジオのLo-Fiとは言っても、ズムズムな電子音は充分に刺激的だった。音楽雑誌か、深夜放送だったか、もう記憶が定かでは無いけれど、それがシンセサイザーの音だということを知ってから、漠然と弾けたら良いなぁとか思っていた。
 因みに、シンセをライブステージに最初に持ち込んだのはキース・エマーソンだが、Minimoogの開発に大きく関わってたのが他ならぬキース自身だった。初期の市販モデルには、キースのサイン入りのセッティングチャートが付いていたそうだ。

§2 My First One - Roland SH-3A

 やがて楽器店の店頭に国産のシンセが並ぶ日が来た。Minimoogもヤマハが輸入代理店になってたため、小倉の日本楽器店頭で見たように思う。'74年、17歳の誕生日に親に強請ってRoland SH-3Aというシンセを手に入れた。今考えると、家の家計からしてみれば物凄く高価な買い物だったに違いない(まず最初の活躍の場が、高校の文化祭の出し物、お化け屋敷のSEだった、というのは少々残念な気がしなくもないが)。
 ともかく、セッティングチャートに手書きしながら、色々な音の作り方を研究した。Jerusalemのイントロ、シンセベースのあの印象的な音が出せた時は感激した。
マニュアル付属の見本チャート。ブランクチャートもあって、自分で書き込む。勿論紙である。なにしろプリセットメモリなんて無かったから。

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付属のセッティングチャートから
このパネル、ハードワイヤードなんだけど、とてもロジカルにできていて、モノシンセの勉強には最適だったと思う。
基本的にはMinimoogのパネルと同じく信号は左→右に流れる。VCO-VCF-VCAにモデュレーション、エンベロープジェネレータと基本要素がわかりやすく並んでる。

§3 Gigs gigs,  and so on

 '76年、大学入学。2年になって友人に誘われロック研究会に入る。最初のバンドはZepとかPurpleとかBBAとかのコピーバンドだったので、シンセはあまり出る幕なし。内紛で解散して、次のバンドでは八神純子から四人囃子、Doobie Bros.にEagles、世良公則と何でもござれ。節操無くやった。ここでは色々とシンセの使い方を実践研究できたように思う。少なく、高価でもない機材で、如何によく見せる(聴かせるか)とか。
 で、ここも内紛で解散したので、一時期ベースを弾く。この頃かな、Tony LevinのStick姿を見たのは(後に石橋楽器店のガラスケースに鎮座しているのを見て、いつか買ってやる、とか物欲を燃やした。それはともかく)。
 3年から4年になる春休みだったか、もう記憶が定かではないのだが、演劇部と掛け持ちしているロック研の先輩ドラマーから、演劇部のOB会公演でやる劇の序曲を書かないか、と持ちかけられた。暇だったので承ることにした。で、EruptionとTake A Pebbleを足して(あくまで個人的な”つもり”ね)1万倍くらいに希釈した奴をでっち上げた。
 劇そのものはシェークスピアの『恋の骨折り損』と『真夏の夜の夢』(あるいは『十二夜』だったか)を混交して脚色したとかいうコンセプトで、やたら高尚な感じだった。で、序曲は嵐(テンペスト)のイメージ、という事だったので、何か不穏な奴を、という感じで妙なフレーズをひねり出した。(人前でやった最初のオリジナルになった。実は今でも覚えてるんだけど。)
 この頃になると、愛器SH-3Aに関しては、暗いステージでもつまみを捻って、試しに聞くこと無く一発で求める音色を決められるくらいには習熟していた(使う音色のバリエーションが少なかった、ということも当然あるが)。
'79頃。学園祭(黒髪祭)の"Rock Inn 黒髪"のステージ。オールナイトでセミプロも呼んでやってた。一応ロック研が主催だったので、主催者特権で出場。

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左手一番上がSH-3A。YAMAHA SS30とYC20(こいつらはサークルの持ち物)と協賛の楽器屋さん(大谷楽器)から借りたRhodes。
ボーカルマイクが立っているが、恥ずかしげもなく歌ったりもしてた。

 この頃のことを思い出すと、顔から火を吹いて煩悶で眠れなくなるくらい恥ずかしいことが一杯なのだが、ここではあまり深く考えないようにしよう。

Epilogue

 最初のシンセを手にしてからほぼ30年。一時期他人のものになっていたMOOGブランドをDr. Robert Moogが取り返し、Minimoogが復活。Voyagerというシリーズ名で発売された。バブル期はとうに過ぎていたが、幸い(?)会社的には仕事が多く、激務のおかげで少しは懐が暖かくなっていた僕は、ほとんど衝動のままにアメリカの楽器店から個人輸入でその一台を購入した。2005年のこと。「あの」音がする、それだけで感激して、そのまま神棚化しているのが難点だが。
 ソフトウェアシンセの世界では、トルコのメーカーKV331 AudioのSynthMaster(VST, AU, & AAX plug-in)で、かの生方則孝さんがプリセットを制作。Trilogyのイントロのストリングス、From the Beginningのソロ音色など、圧倒的な品質で提供してくれている。いつでも自宅であの音色に浸っていられる環境になった。
 僕がここまで引っ張られて来たのも、あの頃聴いたELPの曲が始まり。

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Minimoog Voayager Electric Blue。パネルとホイールがバックライトで青く光る。
現在のVer.では7バンク x 128音色(最大)のメモリー、MIDI、ポリフォニックキーボードなど。音源部は勿論アナログ。

- for the memories of  dear Keith Noel Emerson, who gave me a joy of synthesis. (2016/03/19)

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