見出し画像

【南大沢土木構造物めぐり】No.5(その2) 多摩ニュータウンのシンボル:長池見附橋の魅力

多摩ニュータウンで土木構造物めぐりをするなら、ここは外せないスポットはどこ?といえば、まず思い出すのは長池見附橋です。その魅力については、No.5で取り上げました。さらなる魅力を深掘りしたいと思いつつ、ずいぶん時間が経ってしまいましたが、そこを解説していきたいと思います。ちなみに、前の記事は、こちら。

【長池見附橋の前身、四谷見附橋】
まずは、長池見附橋の前身、四谷見附橋のことを述べたいと思います。四谷見附橋は、東京・新宿区のJR四ツ谷駅の駅前に架かる、国道20号線(甲州街道)の橋です。ここは、元々皇居(江戸城)の外濠だったところに、甲武鉄道(今のJR中央線)が開業します。四谷見附橋は、その上に架かる鉄道跨線橋でした。

土木学会誌(1990年第14号)によると、四谷見附橋は、大正2年(1913年)に建造された鋼製アーチ橋です。明治時代に作られた鋼製アーチ橋は、合計16橋作られましたが、現存するのは兵庫県朝来市の生野鉱山近くにある、神子畑・羽渕という2橋のみです。この2橋も、貴重な土木遺産です。一度訪れてみたいと思います。

大正2年に作られた鋼製アーチ橋は、東京・名古屋・大阪に3橋ありました。大阪は、「本町橋」、名古屋は、「納屋橋」、そして東京は「四谷見附橋」です。このうち納屋橋は1980年代に架け替えられ、本町橋は現存し、四谷見附橋は架け替えられたものの、長池見附橋として移築・保存されたということです。つまり、わが国でも鋼製アーチ橋として現存する数橋のうちのひとつという、非常に貴重な土木遺産を活用しているということになります。

土木学会誌に掲載されている、貴重な写真を下記に示します。小窓が建設当時の状況です。東京市電が走っている状況がわかります。架け替え前の状況も、時代を感じます。

画像1

旧・四谷見附橋の架け替えは、JR四ツ谷駅直上ということもあり、夜間の列車が運行していない時間帯の施工を余儀なくされ、アーチ部分の鋼材を一気に解体するなど、様々な工夫がされていたようです。(写真は土木学会誌より引用)

画像2

架け替え後の四谷見附橋と、移築する長池見附橋のイメージも、土木学会誌に出ていますので、ご参考までに掲載します。歴史的な橋の架け替えは、大きなプロジェクトだったのですね。

画像3

【長池見附橋の移築工事】
長池見附橋の移築工事についても、土木学会誌(1993年第10号)に詳述されています。長池見附橋は、もとの四谷見附橋よりも幅員が狭く、アーチの主桁の数が元の橋よりも少なくなり、不要部材が発生したこと、元の橋の鋼材などを生かして移築しようとするものの、都市計画街路として供用する必要があったため、構造部材の健全性や部材強度の特性を調べる必要があったため、1年間をかけて構造照査を行ったことや、当時と設計基準が違うため、床版の厚さや埋設管の取り合い部分を設計検討するなど、様々な工夫が施されています。すなわち、単に古い橋を移築したわけではなく、古い橋の特性を生かしつつ、新しい橋と同等の性能を持つ橋を設計したということになります。

画像4

画像5

画像6

上の写真3~5は、長池見附橋で新調された橋台部分のレンガの装飾や、持ち送り部分の装飾の製作、取り付け状況です。(いずれも土木学会誌より写真を引用)大正時代に施工された当時の姿を取り戻すために、様々な技術が導入されていたことがわかります。

こうした努力の甲斐があって、長池見附橋は、1993年11月22日に開通式を迎えました。下記の写真は、土木学会誌1994年1月号に掲載された写真と橋名板の文字です。開発途中の長池公園周辺の状況が記録されています。

画像7

【現地にある長池見附橋関係のモニュメント】
現地には、いくつかのモニュメントなどがありますので、現地で撮影した写真を用いて紹介したいと思います。

画像9

橋のたもとにある、大きな「長池見附橋」と記されたモニュメント。

画像9

左上には、「土木学会 田中賞 1994」の文字が。田中賞は、関東大震災後の帝都復興に貢献した、田中豊博士の名を冠して、橋梁・鋼構造関係で功績のあったプロジェクトなどを表彰するものです。

画像10

石碑の裏側に書かれた文章、なかなか秀逸なので転記します。

長池見附橋は、都内に架かっていた四谷見附橋を移築再建した橋梁です。
四谷見附橋は、1913年(大正2年)9月に竣工し、文明開化時の面影が偲ばれる橋梁として多くの人々に親しまれてきました。
長池見附橋本体のうち、高欄や橋燈等の装飾品は、創建当時の姿を復元し、橋台部も当時と同じ花崗岩と煉瓦によって仕上げ、橋梁全体をネオ・バロック調の景観として再現しています。
この貴重な文化遺産が、これからも末永く市民の生活に潤いと豊かさをもたらし、多くの人々に親しまれていくことを願い、ここに再建しました。

平成5年11月 東京都・八王子市・住宅・都市整備公団 南多摩開発局

画像11

画像12

橋の上のシャンデリア風の照明や、右から書かれた橋名板は、説明するまでもないでしょう。これらのオリジナルは四谷見附橋の新しい橋に設置されたため、復元されたもののようです。

画像13

橋の下の鏡池のところに、展示コーナーがあります。これは建造当初の全体図。土質条件などもよくわかります。四ツ谷駅も、まだ汽車が走るのどかな光景だったのでしょう。地質条件なども記載されており、非常に貴重な資料だと思います。英文タイトルが、「The Highway Bridge over Yotsuyamitsuke」となっており、当時の人にとっては、甲州街道はハイウェイだったのかと思いました。

画像14

右上の写真は、アーチリブにタガネで、「東京市 四ツ谷 見附橋 天下壱」と刻印されているそうです。

画像15

画像18

画像19

これは古い四谷見附橋の床版が保存されています。東京市電の古レールも一緒についていて、石畳の舗装がされています。特殊なレールも含めて貴重な遺産です。主桁が通る部分だけ、若干床版が薄くなっていることがわかります。鋼材の節約や部材の軽量化の工夫が、当時からもされていたのではないでしょうか。

画像16

画像17

こちらは、隅角部や下水管が貫通していた部分の装飾です。機能性はもちろん、美しさも追求されているものと思いました。

画像20

画像21

展示物の案内板も、昔の桁部材を転用しています。写真では見えづらいですが、「CARNEGIE」の刻印がウェブにされています。米国の鉄鋼メーカーで、「カーネギーホール」で知られるカーネギー社から輸入した鋼材で作られたことがわかります。

画像22

画像23

画像24

画像25

その他も、高欄の部材などを流用した様々なモニュメント等が飾られていて、昔の姿を連想することができます。

【終わりに】
長池見附橋の魅力を探るため、旧・四谷見附橋の移築(解体)と新しい長池見附橋の工事の歴史を紐解きました。また、現地に保存されている資料を紹介しましたが、どれも非常に興味深いものでした。当時天下壱のハイウェイと記載された四谷見附橋を移築し、新たな多摩ニュータウンのシンボルにしようとした人たちの思いが今の公園のデザインに生かされているのだと思います。そんな思いを持って、この街のシンボル、長池見附橋を眺めるのも良いのではないでしょうか。

この記事が参加している募集

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?