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教室 世界

幼少期の頃の話。


クラスで虐められている男の子がいた。

すぐ泣く子でいつもからかわれたり、叩かれたり蹴られたりもあったと思う。

ただの泣き虫、それだけだったと思う。


みんなその子を笑っていた。

面白がって泣かせていた。


ある時、私はいつも通りやられそうになってるその子の前に立ちはだかって庇った。

「やめろよ!」とか言ったかは覚えてない。


両手を広げてベタな感じで庇ったと思う。


いじめを見かねた正義感だったのか、勇気を出したのか、それともなんとなくテレビの影響とかでやってみたかっただけなのかは覚えていない。


多分、なんかカッコいいからやってみたかった、が有力。
(所詮そんな奴だ、私は)


まあ小さい頃から反抗的であったことは間違いない笑



いじめっ子の前で立ちはだかって虐められてる子を庇う、の図。


その行動をこうして伝えて、それを客観的に見てる人たちはどう思うだろうか?



おそらくそれなりに評価されるように思う。

実際この話をすると当時の私を褒められる事が多い。

いや、余計なことに首突っ込むなと言われたりする事もあるけど。



しかし、現場は違う。

その行為を称賛する人などいなかった。


その子を庇う人間は圧倒的に「少数派」だからだ。


笑う人が大半で虐められてるのを見ても誰も咎めない世界。


そんな世界で庇う奴なんてただの「異端児」だ。



その後、異端児の私は笑いものとなる。

いじめの対象にもなる。



それが世の中だ。


非難されるのは、間違いだと認識されるのはコミュニティの「少数派」だ。


大人になってもそれが通常運転。どこもそんなもん。


世界の常識は多数決で決まる。



もし、あの時の私の行為を賞賛してくれる人がいるのならば、それは「教室の外から見たから」だと思う。


しかし、今自分が属している世界で、世間やそのコミュニティの9割以上の人が非難してる人を擁護したら、どんな目で見られるだろうか?



戦争、虐殺、薬害問題、犯罪、炎上、コロナ禍の差別や強要


過去を振り返ればこの世の良し悪しは結局その時その時の内輪の多数決で決まってしまっている。

世間が熱狂すれば罪なき人への迫害だって簡単に起こる。




私たちはいつもどこかの内側に属している。


学校を卒業しても社会という教室の中にいる。

教室というものは世界の縮図だ。


世界とつながるSNSの世界だって内輪だ。

何万件のいいねが付いてる投稿だって世界のほんの一部分。

教室と変わらない。




でも、教室の中から見るのと外から見るのでは見え方が変わる。


日本に居て見てる日本と世界から見た日本もおそらくかなり印象が違う

正しいと思ってる事が外から見ると相当に間違ってることは多々ある。

宇宙から見た地球の人類なんてきっととんでもない村社会なのだろうな。



ふたりの中の常識、家庭の中の常識、教室の中の常識、社会の常識、日本の常識、世界、地球、宇宙…?



人は弱い生き物で、だからこそ群れで生きる。


常に同調圧力の中にいる。


今自分が立っている場所はどんな世界なのだろう?


目に映ってることはどこから見ているものなのだろう?

立ち止まって、自分の立ち位置を自覚しながら外側から見ていけたらと。


どれだけ「みんな」が何と言っていても、本質を見失わないようにしていきたい。



でも所詮私も弱い人間なので流されてしまうのだ。

実際流されまくりである。

安くうなづいてしまう事などしょっちゅうある。

怖くて何も言えない事もある。


牙も爪もない泳げない飛べない狩りもできない弱い人間は群れるしかないのだよ。


そんなもんである。





あ。あと。


当時の件はやられてた子はただの泣き虫だったけど


もしもその庇う相手が「殺人犯」とかだとまた見方も変わったりするだろうな。


さすがにそんな奴庇ってたらおかしな奴だよー


って考えもまたただの内輪ノリなのかもしれない(まあそうだと思う)




なんにしても、物事は俯瞰(ふかん)して見ていきたい。
見るだけでも。


たまには群れから逸れて世界を眺めたい。


視点を変えて、見る。




ちなみに後日談。


その男の子とは一緒に下校したりしばらくはしていて、でも周りから冷やかされてからかわれて、色々嫌で一緒に帰るのもやめて逃げるようになった記憶がある。
その後私は転校した。


子供の頃なんてそんなもんだ。


ただ、その後幸せになっていてくれたら良いよね。
うん。

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