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対話がおっくうー日々の尊厳

なぜだろう。4年前デンマークのフォルケホイスコーレに滞在して帰国したときには、あんなに人と対話することが楽しく、コロナ禍でリモートが広がったせいもあってか、たくさんのリモート会議に参加し、初対面の人ともいろいろなテーマについて自分の考えを述べることを楽しんだものだった。対話を楽しむ雰囲気、Hygge(ヒュッゲ)を感じていたのではなかっただろうか。それが4年たった今はどうだ。なんと対話することに、ときに「おっくうさ」を感じていることに気づいたのだ。
歳のせいで活舌が悪くなったとか、言葉や名前がすぐに出てこないとか、それで「おっくう」になってしまったのだろうか。それもある。それもあるが、それだけではないような気がする。なぜならデンマークでも私は少なからず活舌やボキャブラリーに問題を抱えていたし、しかも言語の壁に阻まれて発音、聞き取り、語彙すべてで対話に対して大きな障害をきたしていた。そんな状況のもとであっても、相手が聞き取りにくいと感じたなら、穏やかな表情で聞き返すし、言葉が出て来ずにうなっていたら、やはり穏やかな表情で黙ってそれが出てくるのを待ってくれる空気があった。つまり「(私にとっての)居心地の良さ」が上手に維持されていたのだ。こちらが精いっぱい話していることをこちらのペースでそのまま受け止めてくれていたのだ。しかしながらどうも日本ではあまりそれができていない。対話の相手にそれができていないのではなく、自分ができていないのだと思う。自分と言えば相手をせかし、正解を(早く)出すように仕向け、相手の意見と自分の持っている無駄に多いロジックとの差異をぐちぐちと述べ立ててしまうのだ。もちろん極端にそうしているわけではないが、そんな雰囲気で対話をしようとしているようだ。
これでは居心地もへったくれもない。安心して、リラックスしてその場にいることができない。早晩くたびれて早くやめたいと考えるだろう。しかしデンマークでのヒュッゲの体験は、なぜ自分がこのように感じているのかを考えさせるように私を変えた。大きな収穫である。急かされ疲弊させられることに慣れた生活とリラックスして自分のために時間を使う生活。その差異を今もう一度思い出そう。幸い今年も3月にデモクラシーフェスティバルという対話のお祭りが開催される。初対面の人と安心して話ができるということの大きな価値をもう一度体験できるはずだ。おっくうな気持ちで重たくなった腰を少し上げてこのお祭りに身を委ねてみようかと思う。

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