見出し画像

希望が繰り返し叶えられる時間

若い頃は「死」というものを比較的「雑」に捉えていた。人間いつかは死ぬのだから、と頭ではわかっているのだが、では「死」に真面目に向き合って今この瞬間を生きているのか、というとなかなかそうは行かない。それはそうだろうとも思う。少しでも未来にかける夢や希望や可能性があるのなら、「死ぬ前にこれだけはしておこう」というような心境にはなれないのだ。「いつ死んでも後悔しないように今を生きよう」ということも言われるが、若い頃は「いつ死んでも」というフレーズが抜け落ちがちだった。
死に近づくということがどのようなことか、それは近づいてみないとわからない。自分でできないことが増え、今までのような生活を営むことが少しずつ難しくなる。それに気づいたとき、それはまだ20代の頃に見知らぬ子供から「おじさん」と呼ばれたときのショックに近いかもしれない。現実というものが津波のように容赦なく自分を押し流していることを実感する瞬間だ。
デンマークに滞在した2年半前、何度か町のホスピスに出かける機会があった。ホスピスは医療的にもう手が打てない状況になった方が緩和ケアを受けながら最後の時を過ごす場所だ。興味が湧いてホームページを読んだりもしたのだが、そこには死にゆく瞬間が近づいたときに繰り返し個人の希望が叶えられていることが重要だと書かれていた。それはその時どきに思いつくワガママが満たされるということではない。デンマークの人々は基本的にコミュニティに貢献するための行動を選び取るように教育されているように私は思うので、個人の希望というのは、たとえばクリスマスを家族で祝いたいとか、子や孫のためにアクセサリーを作りたいとか、自分の経験に照らしてできることをしたいということである。それを専門的な資格を持った職員や訓練を受けたボランティアが工夫を凝らして実現しようとする。結果的にできないこともあるかもしれないが、それは結果であって、その責任は本人自身が負うこともまた、デンマークの考え方であり、そのことが幸福な人生の1ページとなるものだ。社会が一人の人間の人生のページを最後まで書き続けられるようにしている、それが強烈な印象になって残っている。
私は障害者のためのパソコンボランティアという活動を20年以上続けている。また同じくらい長く、介護施設への取材などもしていた。地域の方の声を聞く機会もあった。そこで度々胸に刺さる言葉があった。「人生終わった」という言葉である。生きているのに人生が終わっているとはどういうことか。それが普通なのか。デンマークではそれは普通ではなかった。それを知ることができただけでもデンマークの滞在の意味は大きかったと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?