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役に立とうとすること

デンマークに留学したおかげで毎日平等とか個人主義とか考え続けているが、日常のちょっとした風景も考えることが多くなってきた。先日ちょっとした日曜大工を友人達でやろうということになった。果物やお菓子を差し入れしてくれる人もいて、とてもありがたいと思っていた。その時のちょっとした風景があった。お菓子を差し入れたり果物の皮をむいて食べやすくしてくれる人がいたのだが、他の人は作業に夢中であまり食べることに気持ちが行かなかった。その人は残念そうな顔をして帰って行った。それに気づいていた人も何人かいて、怒って帰っちゃったと呟いたりして空気が多少気まずくなってしまった。

このようなことはよく考えると割と起こりがちなことだ。楽しい集まりにしたいと思っていろいろやってみるが報いられないという体験だ。それに気づいている人がいると申し訳ないと思って恐縮してしまう。報いられないと感じた人はもうやらない、と思うかもしれないし、申し訳ないと感じた人は作業を時間内に終えるためには仕方なかったと自分に言い訳してみたりする。これは双方が不幸になっている気がする。

デンマークにいく前の自分はきっともっと状況を予想して役立てるような振る舞いを求めたり、多少忙しくてもせっかく差し入れてくれたのだからきちんと感謝して向き合う時間をつくるべきだと思うだろう。それが一人ひとりの人間として求められる姿ではないかと感じていたし、今も感じる。思いやりのあるスタイルだ。

一方、個人主義のデンマークで同じ状況だったらどうだろうとも思う。日曜大工を楽しむのも、お菓子や果物を差し入れるのも、自分で決めた行動だ。だからその行動を100パーセント発揮しようと考えるだろう。なぜならその行動の結果は自分が引き受けるからだ。お菓子や果物をなかなか食べてくれないとしたら、自分にできることを再び考えるべきだろう。つまらなかったという結果を引き受けるのは嫌だからだ。他の人は自分と同じように全力で楽しもうとしているのだから、それを尊重し、観察して自分ができることを戦略として立てて試みるべきだと思うのではなかろうか。

両方の見方で考えても、風景はそんなに変わらないかもしれない。差し入れた人はしばらくして帰って行くからだ。ただ、役立とう、役立つべきだと考えている場合は、残念な結果(気持ち)を引き受けることになるように思うし、自分のできることをしようと考えている場合は、やることをやったから帰ってテレビでも見よう、お菓子があるから手が空いたら食べようか、というような一人ひとりの小さなワクワクを引き受けるかもしれない。

※ 私が個人主義的な見方を優位のように書くのは仕方がない。この考え方が珍しく、まだ身についていないからだ。幸いにも身についてくれば私の本来の(日本的な)見方を優位に書くことが多くなるだろう。

見た目は一緒の風景でも気持ちは別だという例を見つけたような気がしている。しかし日本でも、結果を引き受けるときの気持ちの持ち様を説くことは多く、デンマークの個人主義だけが特別なことを言っているわけではないことも事実だ。

役に立つというのは自分を見ているようで人を見ている。人ばかり見ていると疲れてしまう。だから自分で楽しむように工夫する。自分の楽しみというのは即ち自分がよくやっているという実感だ。そして他人もよくやっていると思えば、それも嬉しい。これも気持ちの持ちようをコントロールする一つのテクニックになるかもしれない。

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