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判断と行動

最近はコロナの影響もあってか、めっきりと一人でスマホを見ている時間が増えた。あまり良いことではないなと思いながら、ついつい目が記事を追ってしまう。動画にしても記事にしてもなかなか目を離すことを許さない、何かが自分を画面に向けて引っ張っているのだ。これは何なのだろう?3年前デンマークのフォルケホイスコーレに行き10ヶ月の間、ほぼテレビやスマホで時間をつぶすことの「ない」生活をした。もちろん向こうでも日本語のツイッターやフェイスブック、LINEを見ることは自由にできたし、ネット配信の動画もいくらでも見ることはできた。しかしそれらの優先度は毎日の中でほぼ最下位まで下がっていた。
理由は単純である。つぶすような時間がなかったからだ。毎日ほとんど聞き取れないデンマーク語を浴び続け、授業スケジュールや掃除片付けなどの当番、計画にミスや漏れが無いかどうかに気を遣い、さらには、神経痛や風邪などを予防し悪化させないように、日本とは気候の異なる場所での健康管理に全力で対応していなければならない。それだけで十分に与えられた時間を使い切ってしまうのだ。しかしその中で浮き上がってきた一番の楽しみというものがあった。それは、自分がこれから何をしようか考える時間だった。
自分が何かをする(行動する)のは楽しい。なぜかというと、自分を自分の思ったようにコントロールして、その結果がわかるからだ。また、そうなるように考えるからだ。そこで自分が行う「判断」は、「自分が大切にしている(楽しいと考えている)」という自分の基準にもとづいている。だからそれに基づいて行動することが楽しい。自分の基準を前面に出して行動することは普通は「みっともない」「空気読まない」というような判断をされるので、あまりすることはない。しかしデンマークは全くの別天地である。「旅の恥はかき捨て」ということわざがあるが私のデンマークでの生活は恥のかきっとおしだった。この心境が自分を自由に行動できるスタート地点に運んでくれたのだろう。そして行動するために判断する、その基準を見つめることで自分に気づかせてくれるものだということもよくわかった。
さて話は戻るが、時間をつぶしているときの「判断」とは、どんなものか。今思いつくのは、他人を「判断」していることが非常に多いということ。だれかが何かを言った、そもそもその人はこんな人だ、もっとこうすべきだ、ぜんぜんわかっちゃいない、など他人を判断するための言葉が並んでいる。しかもそれが加速されてそれが勧善懲悪のドラマのストーリーのようになんとも耳に心地よく聞こえてしまう。不思議である。実際には全然楽しくないのである。面白いかもしれないが、自分にとってなんの意味もないことが多い。この状態をデンマークで体験したとしたら、他人の言動をしてその人を判断することは意味がない(ナンセンス)ということになる。他人を判断しても自分の行動に結びつかないからだ。自分の判断で行動してこそ楽しいのに、他人を判断してばかりで自分は何もしないというのは、本当にお幸せですか?と尋ねられてしまいそうだ。この感覚はデンマークに行ってこそ知ることができたものであり、私にとっての大きな収穫と言えるものだ。

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