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フォルケホイスコーレのファンである(4)

デンマークのフォルケホイスコーレに滞在していたのはもうすでに4年近くも前のことである。しかも後半の3月半ばから5月末までは新型コロナのためにフォルケホイスコーレそのものが閉鎖され、留学生数名が広い寮の中でひっそりと暮らすという体験をしたのだった。

この期間は当然のことながら、正規のフォルケホイスコーレの授業、生活をしていたわけではない。極めて不自然な、不本意な、それでいてワクワクするような、不思議な期間であった。初めての体験ばかりの日々にさらにドッキリを上塗りされたような日々だった。

フォルケホイスコーレは、授業や集団生活を通して自分と向き合う時間を過ごすところである。それは瞑想のようなもの(もあるが、)というより、自分が経験したことのないものに出会ってそれに反応する未知の自分を再発見するということに近いかも知れない。毎日が決まったルーティンの繰り返しであればそこに新しい自分が出てくることがあるだろうか。強制的にでも非日常が毎日起こるような状況のもとでは自分は常に新しい自分を作り、発見し、そして行動してまた作り、を繰り返すことになる。その連続であるからさぞかし忙しいようなイメージが浮かぶが、実際にはそうではなかった。

もし、明日は人生で一度きりの最高に素晴らしいことが起きるかもしれないと、かなりの確率で信じられるとしたらどうだろう。興奮して眠れないだろうか?初めはそうかもしれない。しかし少し場数を踏めば、その最高の時間を最高のコンディションで迎えるための戦略を立てることに気づくだろう。それは私の場合は何度もシミュレーションして準備し、メンタルを含む体調管理を心がけることだった。「そのために」朝起きてラジオ体操をし、デンマーク語の発音練習をし、夜更かしせずに十分な睡眠時間をとった。自分がしなければならない義務ではなく、自分の責任でしたいことをするというごく自然な行動だったと思う。

ではそれが一体何なのか? 何かの薬(得)になるのか?
あえてそれを言おうとすれば、自分の人生の意味を考えているという実感である。何かに追われるように生きている、または何も見出せないような気持ちで生きている、これは100%そうではなく、ほんの心の片隅にあるものだが、存在感はかなりある。それをほぐして開いて色をつけるような感覚をフォルケホイスコーレは感じさせてくれた。58歳にしてである。

日本でもフォルケホイスコーレの試みがいくつか進行中であると承知しているが、デンマークの形をそのまま持ってきてもうまくいかないのは数々の対話を通して恐らくかなり明らかになってきていると思う。日本の、日本人にとって人生の意味を考えられる時間と場所を提供できる存在がこれらの活動が向かう先にあるのではないだろうか。
その意味でどちらのフォルケホイスコーレであっても、私はファンである。

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