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脆弱さの安心感という矛盾

さすがに歳をとってくると嫌でもあちらこちらが故障してくる。医者通いや毎日の薬などに慣れてしまえばそれまでかもしれないが、今はついに来たかという諦めと、一時的な病気のようなものだという拒絶がせめぎ合っているような状態だ。歳のせいで軟骨がすりへったから、内臓の機能が少し衰えてきたからなどと言われたらこれはもう、観念せざるを得ないはずだが、気持ちの上ではなかなか受け入れられない。
ところが、拒絶している割には一方で何か安心している、ホッとしている部分があることにも気づいている。これが何なのかちょっと考えてみた。この感じは確かに「おみそ」に近い。子供の頃近所の子供たちが集まって鬼ごっこをしたときに、年齢が小さかったり怪我をしていて走れないなどの子供は「おみそ」と言って鬼に捕まっても鬼にならずに済んだ、あの特権のような感じである。それは特権のようなものだったが、実は鬼ごっこをつまらないものにしないための工夫だった。逃げる方はスリルを味わうためにそこそこ足の速い鬼でないと面白くない。「おみそ」の子もいずれ速く走れるようになったり、怪我から回復して来ることが期待できるから鬼ごっこというゲームには参加してもらい、楽しみを覚えておいてもらっていつか復帰して来るのを待っているのである。
ところが高齢者の「おみそ」感は似て非なるものだ。復帰が期待できないからである。鬼ごっこの場合はゲームを維持継続するためにプレイヤーが安心して復帰するためのの工夫であったが、こちらの場合は永久戦力外通告のようなもので、ゲームにとっては「おみそ」的な存在としてのメリットがないはずだ。だから本来自分は危機感を覚えなければならない。それが冒頭の「拒絶」なのかもしれない。しかしやはりホッとした感もある。
デンマークでは個人が人生に責任を負う機会を得られることが幸福だと学んだ。個人主義の考え方である。高齢、病気、怪我、何があっても「無為」の言い訳にならない。選択、自己決定の機会が権利として与えられるという意識があるようだ。これは働き盛りの時には過度な仕事中心の生活バランスの偏りにブレーキをかけ、脆弱さが出てきた時には無力感に対抗してアクセルをふかすことになるかもしれない。どちらも人生を自分で幸福にしてゆくという一貫性がある。
脆弱性が出てきてやっと安心するというそのことが一つの矛盾なのではないかと思う。

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