見出し画像

モノに尊厳はあるかーー日々の尊厳

昔、とあるバンドのキーボード担当の人が、「キーボードはとにかくキーを押せば誰でも同じ音が出せるんです。どの指でも、そっぽを向いてても。。でもそこに、気持ちを込めて演奏するんです。」と言って体全体をよじるようにして一つの鍵盤を押していたのを覚えている。
アコースティックな楽器、フルートやバイオリン、トランペットなどなら体を使って音を発生させているからそのやり方次第でいい音が出るという感覚はわかる。しかし、電子鍵盤楽器(キーボード)ではキーは電子回路のスイッチである。どんなふうに構えていようが、どの指であろうが、同じ音が出るはずだ。たくさんセンサーが付いていてそれによっていくらか音に差が出るとしても、所詮キーは電子回路のスイッチであり、スイッチが入れば音が出るようになっているのだ。(アコースティックピアノも鍵盤を叩けば音が出るという意味ではややそれに近いかもしれない。)
ところが彼はそこに「気持ちを込める」という。それを聞いた当時はスピリチュアル的な何かがあるのではないかとさえ思っていたのだが、最近はだいぶ見方が変わってきている。
どんな格好で鳴らそうが、その一つの音は同じかもしれない。しかし楽曲の中の1音となると少し様子が違ってくる。つまりその前後の強弱、流れのテンポのわずかな揺らぎ、その音が1番効果的に鳴る微妙なタイミングがあるはずである。彼はそこに体全体を使って合わせ込むということを言っていたのではなかったか。その時に感じる何かを説明したかったのではなかったか。
尊厳とは、努力して互いに守り合うものである。何を守り合うのかと言えば、人生に意味を持たせることができる機会を守り合うのである。モノに「人生」はない。もしモノがその存在に意味があると思えるような時があるとすれば、それはそのモノが100%活きている時ではなかろうか。もしそうならばモノに向き合った人は「努力して」そのモノの100%を引き出す努力をする。それがモノの尊厳を守っていると言えるのではないか。
一方、尊厳は守り合うものである。ならばモノはいかにして人の尊厳を守るのか。モノを100%活かす人を「匠」といい、尊敬の対象とされている。これはまさにモノが人の尊厳を守っていると言えるのではないか。この場合はモノ自身が努力しているわけではないが、モノは人の努力を鏡面で反射するようにその人に返してくる。そして人とモノが三昧のように一体となって100%活かされたなら、人生に意味を持たせる機会になるのではなかろうか。
モノも人も粗末にしない、100%活かす努力をする。それが実は自分の尊厳を守る努力になっているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?