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フォルケホイスコーレで自分が障害者であるという自覚を持ったこと

私は3年前、デンマークに行く際に、日本のことを忘れて、デンマークの社会に浸るような生活をしなければいけないと考えていた。いかにも日本人として日本の観光ツアーのような気持ちでいて、何を見ても日本と比較し、日本で受けられるようなサービスを期待するようなことがあってはいけないと考えていた。その理由は、デンマークという土地の文化や風習を少しでも深く自分の身体に染み込ませたかったからだ。できるかぎり身をもって体験しないことには現地の本当の考え方に触れることはできないだろうと思っていたからだ。確かにたかだか10ヶ月の滞在でそんなことができるほど甘いものではないし、これまで58年間日本人として生きてきたものが簡単にそれを忘れられるわけもないとは十分承知の上だったが、これが自分にできる最善の策でありしかも生涯にただ1回の機会だと思えば、とにかくそうしなければ大きな後悔が待っていると思った。
その目的から、なるべく日本人がいないだろうと思われる所、英語だけでもとにかく受け入れてくれる所としてロンデを選んだのだった。この学校はデンマーク語が必須とあったが、学校のスタッフとのチャットを通して英語だけでも何とかなるよと助言をもらったので決めたのだった。ただ、あとから考えれば「デンマーク語必須」と書いてある学校というのは実は拒絶の言葉としてではなくて、思いやりの言葉として掲げていたのではないかと思う。デンマークは個人主義の国であるから、たとえデンマーク語も英語も話せなくても個人の考えが尊重されてフォルケホイスコーレへの入学はできるだろう。しかしそれでは「生き延びることはできないだろう」という思いやりの言葉から「デンマーク語必須」と書いているのだと今は思っている。現に私と同時に全盲の学生が入学してきて2週間ほどでリタイヤしていった。ロンデホイスコーレの校舎はバリアフリーではないので生活は相当困難だっただろう。よく頑張ったという気さえする。この例はまさに自分で責任を負って行動するという一つのケースだったのだ。
実は私もフォルケホイスコーレではある意味で障害者であった。言葉と文化と年齢の壁によるコミュニケーション障害である。まさに生き延びる=サバイバルという言葉がふさわしい経験でもあった。
日本には「郷に入らば郷に従え」という諺がある。その土地に住むのならその土地のルールに従うべきだという意味だ。ところが、言葉も文化も通じない自分は従うべきルールすらわからない。暗中模索状態。それが自分の希望した環境だった。もし日本で自分がそのような外国人に出会ったなら、そんな面倒臭い人間に関わるのは嫌だと思ったかもしれない。デンマークでのこうした障害のある状態、厳しい環境は自分がここに来るまでに気にしていたこと、つまり高齢者が社会的弱者になっていった時にどのように社会と関わればいいのかということを強く意識させてくれた。
日本にいれば今なお自分は健常者の範疇にいる。しかし時間と共に確実に心身の故障が増え、社会の中で障害者として生活するということが現実味を帯びて思い知らされている。デンマークはそれを少し早く、じっくりと体験させてくれた。同じように扱い、扱われるということがどのようなことか、頭での理解ではなく、身をもって体験させてくれたのだ。コミュニケーションの障害があるから私は卑屈になっただろうか。自分に価値がないと思っただろうか。自分にできるベストはどんなことだっただろうか。何度思い返してもデンマークの体験はそのたびに新しいことを気づかせてくれるようだ。

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