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「めんどくさい」が正当化される社会ーー日々の尊厳

年齢があがるにつれて言葉に対する違和感も少しずつ増えてきている。それこそが古い頭の証左なのだろうが、たとえは「めんどくさい」はもともと言う人、自分の品格を下げる言葉のはずである。それが「便利」とペアになって言い訳というよりも権利のようになって正当化されているように感じる。さらに現在は「めんどくさい人」のように使われることがあり、相手の品格を下げる言葉になった。
自分が(行うのに)めんどくさいことは、「なぜ便利に簡便になっていないのか」、または「なぜ自分以外にそれをやる人がいないのか」、という疑問・質問に置き換わり、それは正当な主張のようにつまり、正当な権利としてのように発することができるかのようだ。そこまでのことはあまりないかもしれないが、なにか、「めんどくさい」はそれで自分に関することを片付けるための言葉になっているようだ。
そうだ。「めんどくさい」は停止の言葉である。思考を止める言葉である。だから片付ける言葉なのである。そこでおしまい、あとは知らない。もう考えない。そういう言葉になっているのではなかろうか。思考を止めるということは目を背けるということだ。目を背けるということはそれを観察しない、よく見ないということだ。すなわちそれに対して自分は何も知らないし理解もしないということ。ところで、人が知らないもの、理解していないものを前にした時に現れる感情は何だろうか。おそらくそれは恐怖である。「めんどくさい」で片付けていることは自分のまわりに恐怖を感じる対象をどんどん増やすことに他ならない。それを続けていた先には自分は恐怖のただ中で生活しなければならないのかもしれない。「めんどくさい」を正当化するということはそういうことではないのか。
尊厳を守るには個人の非常に多様化している価値観と価値観をちょうど良い距離で保持するという努力が必要である。これは対話を必要とし、時間も手間もかかる。まさに第一印象として「めんどくさい」で片付けたくなるようなことである。しかし安易に思考を止める必要はないように思う。なぜならもし思考を止めずに興味を持ってそれを観察すれば実は本当に必要となる努力はそんなに大きくないことに気づくからだ。むしろ努力した以上に何か得るものがあることに気づくからだ。それはなんだろう。それは「安心感」ではないか。相手を多少なりとも理解してここまでなら大丈夫、という距離感を持つことができたことによる安心感。何も知らなければ恐怖でしかなかった対象を、「(多少)安心できる」対象に変えられたのだ。
だからやはり「めんどくさい」は自分にとっては使いたくない言葉だなと思っている。

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